デジタルを哲学する(02/9/28)


PHP新書、黒崎政男著「デジタルを哲学する」という本を読みました。以前より私が興味を持っている話だったので、深く考えさせる内容でした。
全体的にはテクノロジーの進歩に関して哲学的に考察するというスタンスのエッセー風読み物なんですが、特に前半のデジタル情報に関する考察は私も何回か談話で書いたような内容(「生音楽の復権」「デジタルコンテンツのゆくえ」など)を扱っています。その中には著作権の話ももちろんあります。

まず著者は情報がデジタル化されて、その質量性から解放されたことは、これまでの人類になかった大きな変革であると考えています。ここで問題になるのは、その情報の価値です。情報がそれを格納するモノから解放されたのですから、その情報の中身そのものが情報の価値であると、まず普通は考えることでしょう。
ところがその一方、情報を格納しているモノそのものに価値がある例なども挙げた上で、情報の価値について疑問を投げかけます。例えば、本の値段は部数や制作費から割り出されるものだし、オペラもギターソロも同じCDの値段になっています。
そして、著者自身も情報を格納するモノへのこだわりに依然固執している自分を感じています。例えば、「中世の手写本の持つ言い知れぬ魅力」であったり、写真で言えば「戦前のマニュアル・カメラで撮ったモノクロフィルムを自ら現像する」ことであったり、オーディオなら「SPレコードを、竹針を一回一回削りながら、手巻き蓄音機で再生する」といったような嗜好です。
さすがに上記の例は、いささかレトロ趣味に過ぎるように感じますが、簡単な例で言えば、人々は本を買わずに例えばPDAだけでテキスト情報を読んで、それで満足できるのか?と言ったような疑問なのかもしれません。
確かに本の世界では、まだまだ純粋デジタル情報より質量性のある本のほうが優位性は高いですが、現に音楽の世界ではネットを通じて音楽データをコピーすることが簡単に出来てしまうのが問題になっています。

もう一つ面白い話題として、今まで<知>の領域のものだったものまで情報化されてしまうことの危惧が語られています。情報は大きく分ければ、時間経過でその価値が極端に減少するものと、あまり変化しないものの二つになります。本来は前者のみを情報と呼んでいたはずですが、今ではあらゆるコンテンツが情報と呼ばれるようになってしまいました。
前者の情報の価値が極端に減少するものとしては、最もわかりやすいのが天気予報。その日を過ぎてしまえば、天気予報の情報は何の価値もありません。その一方で、文章や哲学、絵画、演奏などの芸術的な領域のものは簡単にはその価値は変化しません。本来、これらは情報として一つのものとして語られるようなものではなかったのですが、情報のデジタル化によっていわゆる情報も、知的価値のあるコンテンツもひと括りにされています。
著者は、現在の情報伝達のスピード化により、時間を要する熟練、沈思的思考などという文化を支えてきた思考形態が、電子メディアの中で軽んじられ、すべてはスピーディに誰でもわかるように書き換えられ、置き換えられる、そして一度聞いただけでわからないような内容は、無視され、排除される、そういった危険性を感じているのです。
ちょっと関連しますが、大学の権威が失墜する、などということも書かれています。
従来、学者など専門家の権威を形作っていたのは、<情報の独占>と<情報のタイムラグ>であったと言えます。情報をより速く所有し、それを自分たちだけで囲い込むことによって専門家の権威は発生してきました。実際、大学制度を成立させてきたのは、このような<情報の落差>だったと著者は言います。インターネットはそれとはまったく正反対の、情報の<開放>と<同時性>という特徴を持っており、それが現在の教育、大学制度に与える影響は非常に大きいのではないでしょうか。

このように情報のデジタル化は、いろいろな形で我々の常識を覆す可能性を持っています。
情報に質量性がないのなら(つまり、パッケージされる必要がないのなら)、いずれ情報の所有という概念も必要なくなるでしょう。所有する必要がなければ、情報を探し出すテクニック、つまり検索方法がクローズアップされてきます。
また所有しないのであれば、購入する必要もなく、そこに経済的価値が見出せなくなります。まさに著作権システムの崩壊です。
これだけ、多くの問題を孕む情報のデジタル化は、これからいったいどう進行していくのか、たった10年先の常識さえ私たちには皆目見当がつかないのです。



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