生音楽の復権(00/10/22)


インターネット時代の新しいビジネスモデルが至るところで雨後のたけのこのように生まれている昨今です。
最近、ナップスターなんてのが出てきて、無料で音楽ソフトをコピーできるということで話題になっています。もちろん、レコード会社は猛反発。新聞では裁判でレコード業界側の言い分が全面的に認められた、と報じられていました。しかし、同様のサービスはあちらこちらでもぐら叩きの如く現れます。
しかし考えてみると、パッケージングされた音楽ソフトのコピーって、昔からなんとなく釈然としなかった感じはありませんでしたか?テープにダビングすることは誰だって簡単に出来るし、高校生の頃なんか、誰かあるレコードを買ったという話を聞いたら、よくダビングさせてもらったものです。もちろん、レンタルレコード屋なんかにもよく通いました。コピーされることによってレコードが売れなくなるから、それを制限すべきというのは理屈の上ではわかります。理詰めで考えれば、そのレコードに携わる多くのアーティスト、制作ビジネス、音楽ソフト流通ビジネスに打撃を与えることになるのは明らかです。
しかし、こんなにいとも簡単に出来て、しかも誰もが望むことが出来ないというのは、社会の仕組みとしてなんとなく納得がいきません。それを個人の楽しみの範囲内で、なんて曖昧な表現でしか規制できない法律もなんとなくおかしいと思うのです。今までは自分の身の回りの友人からコピーさせてもらっていたのが、インターネット時代になって、しかも音楽ソフトがMP3のようなフォーマットで自由に流通できるようになったら、音楽ソフトのコピーがネット規模でされることは火を見るより明らかです。

例えば、同じことを文芸にあてはめて考えてみるとどうでしょう。
私たちは、ある小説がテキストファイルになって無料でダウンロードできるからといって、本を買わずにそれをダウンロードするでしょうか。確かに、パームで読めるような小説が無料でダウンロードできるサービスもあります。実際、私もダウンロードして読んでみました。しかし結局私が思ったのは、いかなる電子機器よりも未だに「本」というインタフェースが勝っている、ということだったのです。とりあえず液晶の解像度が上がれば、かなり本に近づくとは思うものの、「本」を読んだという充実感は実体の本があって初めて生まれるんじゃないかなと思います。文芸のほうが、流行の音楽より消費される速度が遅いでしょうから、電子技術に左右されない物理的なメディアが結局は強いんじゃないかということも考えられます。
残念ながらパッケージングされる音楽は再生機器さえあれば、どこでも同じように聞ける。それは取りも直さずそういったコンテンツの情報の「軽さ」を示しているような気がしてなりません。そこで音楽の本来の楽しみとは何かと考えれば、実際に演奏者と同じ場所を共有して生の音楽を聞くこと、ではないでしょうか。

こういった生音楽の復権という考えは、私自身の期待というよりは予測でもあるのです。
結果的にこういったコピーサービスを実質上取り締まることが出来なくなれば、逆にそれを肯定する考えも現れます。例えば、コンサートに出向いてもらうための販促用コンテンツとして、あえて無料で音楽を提供するという形です。
もちろん、こういったビジネスモデルが一般的になるには、現在のレコーディングからCD販売までいたる経路が全て刷新されなければいけないでしょうから、そう簡単に事は運ばないでしょう。また生演奏を聞くということが私達の日常で一般化するために、音楽を肌で感じるためのより小規模なホールやライブハウス、そしてアコースティックでも聞かせられる良質なミュージシャンが必要になるでしょう。そして、私達自身にも流行りのアーティストにだけ群がるのでなく、地方の様々な音楽家に耳を傾けるような多様な指向性が必要です。
でも、こんなふうに世の中が変わったら嬉しいなあ、と感じるのは私だけではないと思うのです。ストリートミュージシャンの増加も、パッケージビジネスに対するアンチテーゼにも感じられて、徐々にそういう方向に向かいつつあると私には思えます。


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