1.合唱作品の中のピアノ


3月27日(水)10:00〜12:00
講師:田中瑶子

受講生約30人は老若男女ほぼまんべんなく集まっていた。女性が半分近くいたのは、やはりピアノ伴奏者が多いせいだろう。私はこれが初めての講義だったので、「以外に女性がいるんだなあ」なんて思っていたのだが、あとの指揮法の講座では女性はやはりかなり減ったので、ピアノ伴奏者がこの講座に絞って参加したことが伺われる。
さて、講師の田中瑶子先生は合唱するものなら誰でも知っている合唱ピアノ伴奏者の第一人者と言ってもいい存在だと思う。私は初めてお目にかかったのだが、率直な印象は近所の優しそうなおばさん、と言った感じ(ゴメンなさい)。気負わないその雰囲気が、とても身近な感じを与えていたのだろう。ところが、ひとたび語り始めるとその豊かな教養と芸術観に全く感動してしまった。教養なんて言い方は失礼で、幅広い音楽への造詣の深さと言うべきか。また、田中先生の音楽の取り組みかたへの考え方は全く納得させられるものがあった。
例えばこんな言葉。「私は作品のアナリーゼを伴奏にそのままに反映させるのを第一としない。あくまで演奏という行為は演奏者の内面の発露でなければいけない。」
またちょっと視点は違うが、「最近は演奏会が多すぎるように思う。本当に毎年演奏会を開く必要があるのか。もう少し落ち着いて音楽と向き合って欲しい。時間に追われていてはいい演奏は出来ない。」
ということもおっしゃっていた。

さて、この講座では三善晃作曲「三つの夜想」より「或る死に」を題材として、この曲のピアノ伴奏をどのように行ったらよいか、ということを実際に弾きながら進められた。
まず、合唱音楽のピアノ伴奏における三善晃作品の特徴について。これは、単なる伴奏という範疇を越えて、いわばピアノとの協奏とでも言えるものである。また、この「三つの夜想」は作曲者によるともともとはピアノのノクターンとして発想されたそうである。事実、田中先生はこの曲をピアノソロ曲として演奏したことがあると話していた。
また、三善先生は常々、「作品は独り歩きする」というようなことを言っていたので、田中先生が自分の独自の解釈をこのような形で講義することも許されるであろうということだった。田中先生にとって、この「或る死に」は三善作品で自分の知るかぎり最も叙情的な作品だと感じているそうである。
そののち、受講者には田中先生が楽譜にペダリング及び指使いなどを書いたものをコピーしたものが配付された。最終的には回収されたので、特にピアノ伴奏をしている人などは自分の楽譜に一生懸命書き写していたようである。私は、ピアノのほうはだめなので、特にこの内容を書き写すようなことはしなかった。また、そのコピー楽譜には上記の情報の他に、田中先生が音楽をどのように感じて演奏するかを、図形的に描いたものが記されていた。曰く「情動的なアゴーギグ」なのだそうだ。それはうねりうねった曲線のようなものだったが、感覚的に非常にわかりやすいものだった。
ところで、ペダリングについてだが、いろいろと興味深い話も伺えた。例えば、単純にペダルを踏む、離すといってもその仕方は演奏する音楽、会場、ピアノ本体等の条件によって色々変えるそうである。特にペダルを離すときの動作は重要で、徐々にゆるめていくなどの工夫をされている。もちろん、そのゆるめるスピードも色々な条件によって異なる。また、場合によっては段階的にゆるめていくような方法もするようである。このような繊細なペダリングのためには、足に余計な力を入れていてはいけない。確かに、先生の繊細な残響を伴うペダルの離し方はまさに職人芸的で、これだけでも田中先生の確かなピアノのテクニックを堪能できた。
このあと、実際の曲でのピアノ伴奏部分のアナリーゼを中心に話を進めていったが、これに関しては非常に細かく、曲の個々の部分について言及せざるを得ないのでここでは割愛させていただく。ただ、ピアノ部分のみだけでなく合唱の内容を考えながらどのようにピアノを演奏していくか、ということについて非常に注意を払っていかなければいけない、ということを深く考えさせられた。特に、ピアノが合唱部分のモチーフを後追いするような場合、歌の表情をピアノにうまく引き継がれるようにしなければいけない。また、ピアノが合唱のモチーフを先取りする場合も、それを予期させるように演奏しなければいけない。また、複雑な連符が続く場合、ピアノ演奏としての独自性を保ちながらも、どのように合唱と合わせていくかも重要である。このとき、必ずしもピアノと合唱のたて線がしっかり合う必要はない。それぞれが、演奏としての独自性を持ちながら(それぞれの時間軸を持ちながら)、その相互作用によって音楽が作られる。
また、この詩に関しても田中先生は非常に深い解釈をもっておられた。この詩において、作詩者は「死」というものを一般的な悲しいという感情で捉えるのでなく、苦みと甘さがないまぜになったような非常に幻想的なものとして「死」を捉えている。その中には、ある憧れ、あるあきらめのようなものがある。それは最後の合唱のアカペラ部分の歌詞によって一番表現されており、そこに一種の救い、安らぎみたいなものが現われている。

後半では質問コーナーということで、受講者の質問に答えるという形で進められた。この中では、特にアンサンブルにおいて、合唱や他のパートを聞くことの重要性を言っていたように思う。特にピアノを単なる伴奏として、合わせようと考えるだけでは勿体ない。音楽との協奏を感じて欲しい、と言っていた。また弱音をどのように出すかについては、指を鍵盤となるべく鈍角になめるように置いていけばよい。
また、合唱祭などで本番まで会場のピアノと合唱を合わせるような機会がない場合はどうするかという質問については、日頃からなるべく遠くの音を聞くようにしてはどうかと答えられた。ピアニストはいつもピアノからの直接音に聞き慣れていて、遠くの音を余り聞いていないので、そういう習慣をつけていれば、初めての会場でもどのようなバランスで弾いていいかを自分で判断できるようになるだろう、ということだった。

さて、ピアノ伴奏そのものは直接私とは縁のないものであったが、やはり単なる伴奏楽器と捉えずに独立したパートとして、どのように独自性を保ちながらアンサンブルを作っていくかに深く考えさせられた講義となった。そう考えていくとピアノがのびのびと演奏されるようなレパートリーもおのずと見えていくように感じられた。また、指揮者として伴奏者に望むことも、違った視点で捉えられるようになったことを強く感じ、この講義が私にとって非常に有意義であることを実感させられたのであった。


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