合唱コンクール悪玉論(00/9/3)


今年もまた合唱コンクールの季節がやってきました。
なんだかんだで自分もいくつかの団体でコンクールに関わったりしていますし、コンクールがあるからこそ、音楽的なシビアさを追求できる場が持てるというのは事実ではあると思います。その一方で根強いコンクール悪玉論があるのもまた事実。ただし、ここまで全国的な催し物になってしまい多くの人が関わってくると、一面的な批判はしにくいものです。
実際にコンクールに出場する自分の立場からすれば、一年に一度気合を入れて練習する行事として団員をドライブしやすいし、一つの曲を徹底的にしゃぶりつくしてミクロな音楽作りが出来る貴重な場とも捉えられます。どこの合唱団がどんな曲を選んで、またどんな演奏をしたか、それらが審査員にどのように評価されたかなど、合唱人にとってもいろいろと話題に事欠かないことでありましょう。
もちろんこれは参加するものにとっての近視眼的なコンクールの感じ方ではありますが、その一方で合唱コンクールとはどうあるべきか、という議論もまたもう少しあってもいいかなと思っています。そこで、少し大きな目で私の思うことなど書いて見ましょう。

音楽を評価する場としては、私は二つの種類があると思います。
一つはプロ演奏家になるための登竜門的なコンクール、あるいはオーディションみたいなもの。世界には様々な演奏家のためのそういったコンクールがあり、音楽家の経歴を飾るための重要な要素の一つとなっています。こういったタイプのコンクールは、順位が明確であることや、その出場者の評価は厳格かつ率直なものであることが要求されます。多くの明日のスターを夢見る若手演奏家が、何次にも渡る審査を通り抜ける、まさに勝ち残りゲームであり、勝つことそのものに意味があります。いくら、音楽が主観的な価値によるものだと一般論を言ってみても、なんらかの基準を設けて厳正なる審査をすることがこういった場では優先されざるを得ません。
もう一つは、フェスティバル的なもの。これは様々な個性ある団体が集まり、お互いのレパートリーを披露し、それぞれの演奏を聞き合う。場合によってはレクチャーや合同演奏とかがあったりする、いわばお祭りとしての場で、そこで最も観客を魅了した演奏家を評価しようというものです。器楽の世界でこういったものがあるかは詳しくないですが、私の見るところ欧米で行われる合唱コンクールはこういった感じのものが多いような気がします。
翻って日本の合唱コンクールを考えると、少なくともシステム的には前者を志向しているような気がしないでもないのです。ところが、実際には合唱団がそれにより有名になって、プロとして活動を始める、というほど合唱の世界が社会に認知されているわけでもなく、コンクールの結果としての特典がはっきりしません。その割にコンクールに勝つ、という意識だけが先走りしてしまい、それが各団体の合唱活動に様々な波紋を投げかけているのだと思います。
様々な価値観を持って活動しているアマチュア合唱団を一律な価値基準で序列化するのにいろいろな障壁があることは否めない事実でしょう。そういう状況で、さらに公明正大を推し進めようとしても、不満とのいたちごっこのような気がします。それなら、アマチュア合唱団の祭典である合唱コンクールはやはりフェスティバル的なものがやはり理想なのではないか、と私は思います。
ここまでシステム化してしまった合唱コンクールのあり方を変えることは難しいことではありますが、アマチュアの合唱人に必要なことは他の団体よりいい成績だったという満足感よりも、他の団体の多様な演奏に触れたり、演奏を通じて人的な交流が活発になることじゃないかな、と私は思います。
今日本のコンクールの中で、比較的私の理想に近いものは宝塚の室内合唱コンクールです。前夜祭や、コンクール後のレセプション、そして入賞団体の演奏会などコンクール以外のいろいろな催し物があり、聴衆としても楽しめるコンクールだと思います。こちらは一度参加したことがありますが、それ以来ご無沙汰なんで、また出場したいとは思っているのですけど。



inserted by FC2 system