日本語の詩と曲の関係その2(00/6/4)


本当はこの件、もっと熟慮を重ねて丁寧にまとめて論じるべき話題だとは思うのですが、いつものごとく思うがまま書き連ねて見ようと思います。
前回、単語あたりの音節数が少ない外国語のほうが旋律がより器楽的になる、と断じてしまいましたが、日本語による旋律がもっとも言語の束縛を受けるものとしてイントネーションの問題があります。そしてこれこそ、日本のメロディが器楽的になりにくい最も大きな要素であると私は思います。
良く言われるように、多くの外国語は強弱アクセントで言語にメリハリをつけていますが、日本語の場合音の高低で表します。フランス語なども音の高さの要因がある、とも言われていますね。しかし、日本語の場合、文章の構造を表すために音の高低を表現するというよりは、単語の認識そのものに音の高低が大きな役割を占めているのが大きな特徴と思われます。
特に一単語の音節数が多い日本語の単語においては、ひとつの単語を発しただけでも、かなり明確な音の高低のラインが現れます。
そして、その音の高さを間違えると聞いている側にかなりの違和感を与えます。イントネーションの違いは、方言の問題なども生みますから、言語的アイデンティティの基盤になるといえるくらい重要な問題です。
言葉を「歌う」ことは、朗読とかと同じかそれ以上の時間的冗長性を持ちますから、とりわけこの種の違和感には敏感になります。したがって、作り手側も言葉のイントネーションを無視することに非常に慎重になるのです。
これまで、良い作曲家の条件としては、日本語のイントネーションを生かしつつ音楽的に高いレベルに昇華できることが大きな要素だったと思います。しかしその一方で、西洋音楽を学び、その素晴らしさを意識するにつけ、日本語である以上どうしても近づけないフィーリングを作り手が感じ続けてきたことも事実でしょう。

この場合に創作家がどのような手段を取ってきたか考えるのは結構面白いかもしれません。
まず最初に、日本語のイントネーションを無視する、という手っ取り早い方法があります。一部の現代音楽で、そのような旋律(一般的感覚では旋律とも言えるかどうか^^;)を聞いたこともあります。比較的有名な合唱曲の例としては、三枝成章作曲の「川よとわに美しく」などがあります。もちろん、徹底的に無視しているわけではないですが、ときおり言葉を聞いているとえっと思わせるようなフレーズに出くわします。かなり確信犯的な感じも漂ってはいますが。
次は、日本語の詩に曲をつけない、という選択肢。まあ、こうしてしまえばこの議論そのものから脱することが出来るわけですから、ある意味完璧な方法でしょう。合唱曲の世界でも、日本語以外の言語に曲をつけるという人が最近は多くなってきました。英語が比較的多いですが、英語には英語なりのフィーリングが多少はあるわけで、それはそれで危険なかけかもしれませんね。そして、これは日本人の作曲家である、という自分の立場とどう折り合いをつけるのか、それに関して何らかの哲学を自らで探すという状況に対峙せねばならないはずです。
もうひとつポピュラーの世界では一般的である方法があります。それは曲を先に作る、という方法です。
曲を先に作ってしまえば、器楽的旋律がどうしても優先されます。後で言葉をつける場合、作詞家がメロディにあった言葉をさがすことになり、むしろ作詞家のセンスが問われるようになります。ただ、この場合言葉の勢いがなかなか出てこなくなるということは往々にしてあることです。
そんな問題を解決するために、80年代のアイドル系ポップスではこんな方法が一般的でした。まずコピーライターがインパクトのある言葉を考えます。作曲家はその言葉をサビの一句として曲の頂点に持っていき、そこから曲全体を作ります。作られた曲はまたコピーライター兼作詞家に戻ってきて、残りの詩が書かれます。これにより、言葉の持つインパクトを中心に据えながら、曲先という作り方が尊重されるわけです。もちろん、言葉のインパクトといってもその一句だけであって、もっと意味的な強さを求めようとすると、これはもう曲先という作り方ではかなり難しいでしょう。
芸術のボーカル曲で曲先という例はあんまりないですが、たしか新実徳英の「白いうた青いうた」のシリーズなどはこの方法だったと聞いています。しかし、合唱のような多声音楽となると、ちょっとこの方法は難しいかもしれません。



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