和声学をどう楽しむか(00/3/19)


作曲をするのにどうしても必要な学問は、と言われればやはり和声学ということになるのでしょうか。メロディを思いつくことなら、なんとなくイメージは湧くのに、それに同時に複数の音をあてがって和音を作る段になると、とたんにみんな引いてしまうようです。
私も、大学の頃ちゃんと和声を勉強したいと思って、和声学の本をいろいろ買ってみたりしたものです。やはり、作曲を極めたいと思うなら、基本的な土台として和声学を知っておくべきだと思ったからです。楽器店などに行くと置いてある「和声 理論と実習T、U、V」という、よく音大の授業で使われている本を買ったのですが、結局1巻の半分くらいで挫折してしまいました。
その主な理由は、数ページ毎に出てくるおびただしい規則を覚えることが耐えられなくなってしまったからでしょう。このペースで3巻の終りまで、と考えると気が遠くなってくるのです。確かに後半に行くほど刺激的な展開の譜例が書かれていて、ああここまでちゃんと理解したいなあと思ったものですが、独学でそこまでやるのはかなりつらいものがありました。
結果的に和声学を学ぶことはその時点で頓挫してしまい、それ以来まともに勉強した覚えがありません。だから、私はアカデミックな意味での和声学は良く知らないということにしています。実際、このへんをしっかり音大で学んだ人が和声を論じたりするのを聞いても、ほんとにチンプンカンプンなのです。
しかし、この和声を学ぶということも少し問題がありはしないか、と私は思います。そもそも、和声学で良く出てくる「禁則」なんて言葉自体権威的じゃないですか。中途半端に音大で和声学をやった人がときどき「平行五度ってやっちゃいけないんでしょー」とか言いますが、別に平行五度を書いたって逮捕されるわけじゃありませんし、誰がそれを咎めるというのでしょう。このように禁止とかいう、常に行動を規制されるような表現で書かれている学問なので、それを学習しようとする人だって発想が後ろ向きになってしまうのは当然です。そもそも作曲家の心理上、自分の書いた音の響きに自信があれば作曲中に「ああ、これは禁則だからやめておこう」なんて考える人はほとんどいないでしょう。むしろ、和声は知らないうちに身に付いているもので、それを意識してしまえば常に新しいアイデアや楽想を考えようとしているときにそれを中断するような思考はマイナスの要素にしかなりません。私の思うに作曲家にとっての和声学とは、何がより美しく響くのか、それのカタログとしての意味しかなく、様々な禁則及び和声用語は音楽分析に用いるアカデミックな立場の人たちのものと考えればいいのです。

現在、私が今聞いている音楽を認識したり、頭の中でイメージしたりするときに和声的な基準となるものはコードネームです。こちらのほうは最も多感な時期に感覚として体に入ってしまったので、自分にとってすごく自然なのです。そして場合によっては、妙なアカデミズムに毒されていない分、創作に対して柔軟で自由な対応が取れるのです。
10年ほど前、キーボードマガジンという雑誌を良く読んでいました。この中で、実践コードワーク、というコーナーがあって、それがかなり刺激的な内容だったことを覚えています。和声学だと、たかだかC、F、Gくらいのコードの連結だけでいやになるほど規則がありその先になかなか進めませんが、この記事ではキーボーディストのために様々なテンションコードの使い方が紹介されており、いきなりジャジーなその感覚がすごくかっこよく感じたわけです。
実はこの記事、その後、本としてまとめられているようです。出版はリットーミュージックからで、その名も「実践コードワーク」(篠田元一著)。これもなぜか全3巻あります。昨日久しぶりに楽器店でそれを見て、第3巻だけ買ってしまいました^^;。私には、現在のクリエーターにとってこちらのほうが大学で教えてくれる和声学より数倍参考になるように思えます。


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