正しい議論のやり方(02/12/7)


ここ数日、新聞やテレビでは道路公団民営化推進委員会のニュースが報道されています。話し合いの中身については、私はまったくコメントできませんが、こういった話し合いの場でのドタバタをみると、なんだかなー、という気分になってしまいます。
でも同じようなことは、仕事の場でも、あるいはインターネットの掲示板でも、しょっちゅう起きていることではないでしょうか。こういう事態を見るにつけ、日本人は議論というのが下手だなあ、と感じてしまいます。
だいたい話し合いがこじれるパターンというのは決まっています。
どうしても一本化できないような複数の案についてそれぞれに強力な支持者がいる場合、どう考えてもこの話し合いは平行線を辿るでしょう。お互いどうしてもイライラしてきて、ついにどちらかがキレてしまう。欧米的なディベートの感覚だと、感情的になってしまったらその時点で議論者として失格だと誰も目にも映りますが、どうも日本でも議論の場では、先にキレるほうが有利になる場合もあります。あるいは、上手に怒るほうが有利になったりします。どうして議論をしているのに、怒ったほうが勝ちになるのか、こういった場に遭遇するたびに私は憂鬱になります。
インターネットの掲示板などは、面と向かって怒れない分だけ陰湿でたちが悪い。仮に、双方とも議論においてなるべく卑屈にならずに正当な議論を重ねようとしても、いずれは議論の仕方を議論をするメタ議論になっていきます。
このとき、すぐに槍玉に挙げられるのが「多数決」。多数決が民主的な解決法かどうかが、また議論になってしまうのです。特にネット上の議論の不毛なのは、結局「知識量」にものをいわせることに終始し、「こんなことも知らないのか」という間接的な感情論に発展してしまうことです。

私はどんな議論であっても、双方の主張が平行線を辿っているのなら結論は出ないと思います。仮にそこで無理やり結論を出すと、いわゆる玉虫色の決着といわれるような、双方傷み分けの中身がない空虚な結論に落ち着いてしまいます。もちろん、双方が合意することに意味があるなら、このような結論が良好な場合もあるかもしれません。例えば、国と国との折衝の場では、こういった結論にすることは重要でしょう。
しかし、議論の結論が「正しい」ことに意義がある場合、そういうわけにはいきません。ならばどうしたらよいか。

恐らくそれは議論のやり方の問題ではなくて、物事の決め方の問題だと思います。
責任と権限が明確でない日本的社会では、どうしても関係者のコンセンサスを取る必要があります。だから、いろいろな考え方の人を集めてまず会議をしてしまうのです。すると、上記のような事態に陥ります。
私の思うに、結論の「正しさ」が必要な場合、議論をしてはいけないのです。結論を出さない場では、ガンガン議論してもらっても構わないし、結論を出さないからこそ、議論の内容が論理的であることが求められます。こういう場なら、感情的になるほど議論者として不適格だと思われるでしょう。
議論をしないとはどういうことか。それはトップが信頼する人物に責任と権限を与え、その範囲で自由に仕切るような仕組みが必要だということです。もちろん、それに反対な人はいくらでもいるでしょう。そのとき反対者が出来ることは、トップを変えることです。そのために選挙という仕組みがあるのです。

だから私の考えでいえば、上の民営化推進委員は7人のいろいろな考えの人を集めるのでなく、首相が自分の方向性と合っている専門家を一人指定し、その人に原案を作る権限と責任をすべて与えるべきでした。
ただ、もちろん今の日本ではそのような方法ではかえって独裁だなどと批判されるに違いありません。結局、有識者が話し合いをしているという体裁が必要だったとも思えるのです。

日本では不要な会議が多すぎるとはよく言われることです。自分がいてもいなくてもよい会議に出なければいけないのは苦痛ですし、会社のコストだって馬鹿に出来ません。とはいえ、このようなコンセンサス社会の行動規範が我々の心理の奥深くまで浸透している現状というのは、なかなか簡単には変えられそうにもありません。



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