名曲の条件 その2(02/10/26)


本来音楽は歌であったのではないか、と思います。
そして、その歌ももともとは朗読のような、抑揚の多い語り言葉だったのかもしれません。学術的な音楽の起源を語るつもりはありません。しかし、歌の発生が共同体における何らかの儀式から始まっているのは、私の感覚では間違っていないと思っています。
歌を伴わない純粋な器楽が発達したのは、音楽における様々な取り決めが定着したからでしょう。人間が考え出した音のルール、取り決めが複雑化するにつれ、音楽の抽象度はさらに増していきます。

人々の決めたルールに従順であることは、すなわち保守的な態度に繋がります。それは、ある意味創作者のアイデンティティとは無縁である感覚であり、作曲行為の無名性にも繋がるでしょう。そこまでいかなくても、音楽家がある種、職人的な立場として活躍していた時代もあったでしょうし、そういう時代には神の力が自分をして音楽を書かせてきた、などという言い方も多くされていたように思います。
恐らく、ロマン派以降こういった傾向から離れ、創作家個人がクローズアップされる時代になってきました。芸術としての価値の最も大きな大前提はオリジナリティです。そして、それは上で述べたルールに従順な保守的な態度に矛盾せざるをえません。恐らくこれが、芸術としての音楽が本質的に抱える矛盾なのだろうと思うのです。

きっと人間が生きていくためには踊りと歌が必要なのです。共同体に集まる人々が同じように踊り、歌えるようにするために、音楽は規格化されざるを得ません。そこで使われる音楽とは素朴で、あけすけなものだったはずですが、決め事が多くなって複雑になるにつれ、音楽を扱う専門集団が現れます。かくして、音楽は人々の手から離れ、自分が歌い踊るためのものだったものが、「聴く」ものに変わっていきます。実際のところ、今だって踊るための音楽はたくさん存在します。音楽が変わってしまったのでなく、その守備範囲が極めて広くなったというべきなのかもしれません。
人々の音楽的体験とは、「歌う」「踊る」(文字通りの歌、踊りでなく、もっと広義な意味だと思ってください)という経験に強く依存しているのではないかと思います。自分の人生におけるそういった個々の音楽体験の積み重ねは、その人の音楽観に主観的な指標を与えます。例えば、その最も重要な例は、宗教における礼拝のようなものです。その空間に集まると、人々はみな敬虔になり、いつもと違う表情を見せます。そのような集団的トランス状態(?)における礼拝音楽は人々の心に深く浸透するものではないでしょうか。

いささか、取り留めのない話になってしまいました。実際のところ、煎じ詰めると、上の話は以下の2点に要約されてしまうのです。
・芸術としてのオリジナリティを追求することと、人々に必要とされる音楽を作ることとは相容れないという矛盾。
・歌う、踊るといった音楽の身体的体験、そしてそのために規格化された音楽は、その人の音楽的嗜好に大きな影響を及ぼす。
さて、あなたはいかが思いますか?



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