気になる作曲家 多田武彦篇(02/3/30)


この作曲家ほど好みが極端に分かれる人も珍しいと思います。もちろん、これが「好み」の問題なのかどうかと言われると反論もありそうですが、この作曲家は何かしら、合唱、あるいは音楽に対するスタンスを明確にせざるを得ないような踏絵的存在のような気がします。
実際のところ、そんな大げさな思考を経ないままなんとなく感情的に論じられやすいようにも私には感じられます。出来れば、この作曲家の存在意義についてもう少し掘り下げて考えてみたいのです。

一つには難解な音楽表現に対するアンチテーゼとしての存在、という意味があると思います。
音楽が抽象的に、そして結果として難解になっていくことが芸術的価値を左右するような風潮があります。むしろ、これは過去において前衛的な立場の作曲家が正当に評価されず、後の世になって評価されたという事実の反動なのかもしれません。例えば、バッハはその死後数十年の間忘れ去られていましたが、メンデルスゾーンによる再評価で再び歴史の表舞台に立ちました。アイヴズのような作曲家が今なお多くの創作家に支持されているという事実もあります。
わかりやすいからこそ同時代の人に受け入れられやすく、逆に忘れ去られやすい、というように一般には思われているような気がしてならないのですが、私に言わせれば、わかりやすさ、抽象度、という音楽の表象的な部分ではないところにも音楽的価値があり、結局のところ、「いい」音楽が世の中に残っている、というただそれだけのことだと思うのです。
言葉で明確に表現できないところにも音楽のよさはあります。それはもう感性の問題でしかなく、だからこそわかる人にしかわからない、ということになってしまうのでしょう。
逆に、音楽が抽象的になり過ぎたことを危惧して、わかりやすい音楽を作ろうという努力をしている作曲家もいます。しかし、これは結局のところ、音楽を抽象的な方向に向かわせようとする努力と単にベクトルが逆なだけで、「良い」音楽を作ることとは次元が違っているような気がするのです。極論すれば、私は「わかりやすい音楽を作ろうという努力」も、本質的には間違っていると思います。

私がタダタケ(愛を込めて敢えてこう呼ばせていただきます)に感じるのは、「わかりやすく作ろうとする努力」ではなくて、ただ思いのままに曲を作ったらこうなった結果としての「わかりやすさ」です。
だからこそ、タダタケを評論するときに、単純さ、わかりやすさだけで判断するのは非常に危険だと感じるのです。
むしろ、私は「思いのまま作った」と感じさせる飄々とした作曲態度に憧れます。あとは、その作品世界が「良い」ものと思えるかどうか、それだけのことです。

それではその作品世界にどういった特徴があるのか、というのが次のポイントになります。
これは恐らくタダタケの選ぶテキスト、そしてそれに対しどのように音楽を展開させているのか、ということを論じることに他なりません。そして、この観点においてタダタケは唯一無二の個性を持った作曲家であることはおわかりになると思います。つまり、日本人の奥底にある郷愁や感性を呼び覚ますようなテキストを好んで用いていること、そしてその作品のほとんど全てが男声合唱であるという点です。ここまで、極端に自己の個性を守り続けていることは大変難しいことです。
アンチタダタケに言わせれば、同じ様式以外の曲が書けないから書いてないだけだ、と突っ込みそうですが、これはやはり能力の有無の問題ではないと私は言いたい。新たに曲を書こうとしたときに、その作品の方向性には無限の可能性があります。そして、そこでどういった方向性を選択するかは、まさに作曲家の積極的判断だと思うからです。

さて、あとは本当にタダタケの作品世界が音楽的に優れているか、どうかということになりますが、これに関しては是非皆さんで考えてみてください(^^;)。


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