音楽を評論する(02/3/9)


世には多くの音楽評論家と呼ばれる人たちがいますが、演奏の現場において一般名詞である「評論家」という言葉は必ずしもいい印象を持たれません。例えば、評論家的態度なんて言えば、口ばっかりで自分では何にもやらない、といった非難の意が隠されているものです。
もちろん、それでもなお、演奏家がいる以上、音楽評論家は芸術の発展のために必要な存在だと私は思います。しかしながら、日本において音楽評論という行為が果たして成り立っているのかというと疑問を感じることもしばしばなのです。

去年の正月の浜松バッハ研究会のドイツ演奏旅行の際、現地の新聞が我々の演奏会について記事を割いてくれました。帰国後、その訳が配られ私も読んだのですが、記事そのものは立派な音楽評論となっていました。つまり、記者はバッハのロ短調ミサを良く知っており、その曲が日本の団体によってどのように演奏されたかを伝えようとする文章だったのです。もちろん、我々の演奏の出来は一般的な意味で必ずしも良くはなかったはずですが、それに関してそこそこ評価してくれていることには若干の温情も感じました。それにしても一地方の小さな演奏会についてこういった記事が書かれるということは、やはりドイツにおける音楽文化の底辺の拡がりを感じさせます。
もしこれが、日本だったらどうでしょう。東京で開催されるようなトップレベルの演奏会なら新聞の文化コーナーでそれなりに評論されることもあるでしょうが、地方で行われる地方の演奏家の演奏会について想像してみてください。
せいぜい「素晴らしい音楽が多くの観客を魅了した」とか、その程度のことしか書かれておらず、どのような演奏だったのかを知る術もありません。音楽の具体的な内容まで全く踏み込んでいないのです。逆に、もし仮に上のドイツのような音楽評論的記事が書かれていたら、日本人はどこか違和感を感じるでしょうし、記事の内容によっては反感を持たれる可能性だってあります。

そう考えると、恐らく音楽評論にも市場原理みたいなものがあてはまるのだと思います。
評論というのは、それを読みたい人がいるからこそ成り立つものです。評論を報道という観点からいえば、その日演奏会を聞きたいと思っていたけど聞けなかった人に、どのような演奏会だったかを客観的に伝える、ということがまず必要と思われます。また、純粋に芸術的な観点でいえば、音楽の様々な表現方法や演奏家の能力について評価する、というのも音楽評論の重要な要素でしょう。
これらも知りたい、聞きたい、と思う人がいるからこそ評論は成り立つわけで、日本の新聞においてそのような記事が少ないのは、やはり単純に知りたいと思う人が少ない、ということを示しているのかもしれません。

多くの音楽マニアはまた、プロの評論家のように音楽を評論することがまたその楽しみの一つであります。
ただ、音楽評論が普通の人の目に触れるほど一般的ではない現状において、音楽好きな人が自分なりの評論を世に発することはそれなりの危険(^^;)が伴います。特に、音楽そのものの質より、開催したことに意義があるような演奏会の場合はなおさらのこと。
日本がドイツのような音楽文化の先進国になるには、個人個人が演奏会などで聞いた演奏について正当な評論を発信していくことが大事であるように思えますし、実際多くのアマチュア評論家がネット上などでそういった情報を発信しています。しかし、私が思うにはそれ以前に多くの人が音楽の質そのものに興味を持つことのほうが大事で(つまりそれは評論に対する需要につながる)、そういう土壌があるからこそ本当の評論という場が保証されるのではないでしょうか。



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