本当にイイもの(01/3/3)


今なら、バッハやベートーヴェン、モーツァルトの偉大な功績を否定する人はいないでしょう。彼らの同時代にごまんといた音楽家の中で、こういった作曲家が時代を超えて残っているという事実は、その芸術が本当に内容の高いものであった、という証拠に他なりません。

このようなすでに評価が確定されたものに対して、これは素晴らしい、というのは全く無難だし簡単なことです。自分の評価の中に、世間の評価のバイアスを思いっきりかけているだけだからです。自分の感性で本当にイイものを評価することは、実際にはすごく勇気が必要なことだと私は思います。
もちろん、どんな人でも、世間一般の評価の影響から無縁ではいられません。また、それによって学ぶべきこともたくさんあることは事実です。しかし、あまりに世間の評価に迎合してしまうのは、やはり本当にイイものを評価できる審美眼に欠けていることを示しているように私には思えてしまうのです。
こういったことが最も端的に現れるのが、現在生きている芸術家、今生まれたばかりの芸術作品に対する評価です。
あまりに世間の評価の影響を受けてしまう人なら、その芸術家の評価を経歴や賞歴、あるいは信頼ある人の評価で判断してしまうことは往々にしてあるものです。あるいは、自分より年少の若々しく破天荒な感性を評価することはたいていの人には難しいものです。結局のところ、その芸術の本質的な価値判断には長い歴史が必要になってしまうのです。

私は以前、この件についてもっと楽観的に考えていました。
というのは、ここまでメディアが発達している現在、多くの人に評価される機会が以前より増えるはずなので、時代の淘汰が非常に早いペースで進むのでは、と思っていたのです。つまり昔なら50年経たないと評価の定まらなかったことが、5年で定まるようになるといったような感じです。
しかし、今はあまりそういうふうに思わなくなりました。
メディアが発達したことにより、評価者のレベルの裾野も広がります。良いものを良いと言える、感じられる人の比率は少しも変わっていないのです。いや、むしろ比率としては減っているのかもしれません。
また、メディアの発達は、評価する人を増やしただけでなく、評価される人も増やしています。気が付けば、昔と変わらない人たちが、さらに細分化されたジャンルの中であいも変わらず同じような批評を繰り返しているだけなのです。

ポピュラー音楽の世界では、より多くの人に支持されたか、という最も単純な方法で評価される図式が完全に定着してしまいました。これを商業主義といって非難することは簡単ですが、自分の生きた時代や思い出を象徴するファッションの一部だと思えばまた別の愛情が生まれて来るというものです。だからポピュラーの世界で、自分のやっていることは何十年経たないと認められないだろう、などと言うのは全くのナンセンスであって、今ヒットすること、それに対してしのぎをけずることが彼らの目的なのです。
もちろん、もう100年たって、今のポピュラー音楽で誰が後世まで伝えられているのか、というのは非常に興味ある考察だとは思いますが。

しかし、芸術作品の評価とは本当に難しいものです。
誰しも自分の評価を間違っているとは思いません。
他人の評価に対して、あの人の考え方には世間の評価のバイアスがかかっている、と私が思っても、とうの本人は決してそんなことはない、と言うに決まっています。 イイものか、大したものでないのか、その判断は微妙なもので、いくら意見を戦わせても結果は出ないでしょう。むしろ、そういった論戦は、人がどのように感じているか知ることに意義があり、それ以上の結論は自分の心の中で下すしかないよなあ、と私は思っています。
そして、あとは少しでも、イイものをイイと言える審美眼をひたすら自分自身で磨いていくということにつきるわけです。



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