あなたは宗教曲が歌えますか?(00/12/17)


うーん、またヘビーな問いかけをしてしまいました。
合唱をやっていく以上、宗教曲と無縁ではいられません。合唱には宗教的題材をテキストとする数多の名作があります。合唱音楽を楽しもうと思えば宗教曲は避けて通ることはできないでしょう。結局、合唱音楽自体が教会の中で育まれ、発展してきた歴史的経緯を踏まえれば、これはやむを得ない事実なのです。
しかし、キリスト教徒でない人が宗教曲を歌い、キリスト教徒でない人がその演奏を聞きにやってきて、一体そこに生まれる感動とは何なのだろうと、ちょっと哲学的に考えることがあります。もちろん、これらの音楽を世界共通の財産と考えるとか、神を普遍的な地位に捉えなおすとか、そういう発想で宗教曲を楽しむことを正当化することは出来ます。ただ、私の考えでは宗教的感動というのは普遍的、とは全く逆でむしろ個人的な心理的体験に根ざすものではないか、と最近考えているのです。私たちが、お盆をやったり、初詣でに行ったり、お葬式をしたり、そういった場で思わず触れる日本人的宗教感というのがあるのと同じように、日々の生活に密着したキリスト教の文化は私にとって簡単に理解できるものではありません。そして、我々には経験できないそうした個人的体験の積み重ねが、宗教の信仰心に大きく関わっているような気がします。

私が中学生の頃、英語の塾の先生に勧められて友達と教会に行ったことがあります。
何となく、教会に行くなんてカッコイイ、みたいなノリで、特に意味深く考えることもなく、ある日曜日に二人で教会に向かったのです。
まず、私たちは教会内の狭い部屋に通され、そこで紙芝居を見せられることになりました。その紙芝居では、確かイエスの受難についての話が語られていました。そして最後に、イエスの復活が語られました。
その紙芝居を見ている途中から、何だかわからない居心地の悪さがありました。自分の価値観とは違う、得体の知れないぼんやりとした恐怖感もあったかもしれません。そして、この科学全盛の時代にあって、真面目にイエスの復活を信じていること自体が、中学生の私には信じられませんでした。
そのあと、塾の先生の勧められるまま、礼拝に参加しました。
前に立つ牧師さんが私たちを紹介します。
「今日、我々に新しい兄弟が加わりました。」みたいなことを言われたような気がします。いや、待って、僕たちはただここに遊びに来ただけなんです、ちょっと面白そうだからと思って...もちろん、そんなことを言えるはずもなく、その日、その他の信者の人達のお話(これが、また日常のまったく些細なことまで全て神様を持ち出すような話ばかりで、その感覚が恐かった)を聞き、そして参列する人とともにパンと水を分かち合ってしまったのでした。
全て終って、教会を出るとき、先生は何気なく「どうだった、面白かった?」なんて聞いてきました。先生としては、純粋に信者を増やしたい気持ちで私たちを呼んだのでしょう。私は、先生に異質なものに触れた恐さを伝えるすべもなく、その日は友達と二人、無言で帰っていったのです。もちろん、その後その教会に通うことがなかったのは言うまでもありません。

もちろん、今ならその日あったこと全てが理解できますし、教会に対してそんな恐怖感をいだくことはないでしょう。
今では、合唱をしているおかげで教会に出入りすることもしばしばあります。そして、実際信者である人達と一緒に歌ったりすることもあります。それでもなお、私には教会に集まる人達の雰囲気、「善で塗り固められた」ようなその空間に未だに戸惑いを感じます。
そういった雰囲気に疑問を感じないくらい生活に密着している信者とは、やはり自ずから、聖書や典礼文への感じ方も変わってくるのではないか、と思ってしまうのです。



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