アンとベティの物語 〜相対性理論外伝〜


西暦2000年のある日、一つのロケットが今まさに飛び立とうとしていた。
24.5光年先にある、地球と同じ程の大きさの惑星を探査するためである。国立宇宙センターの開発した最新型のロケットは光速の98%の速度で巡航することが可能であったが、見た目はそれほど立派なものではない。むしろ、そのような速度で宇宙の旅を行うには人々にはあまりに貧弱に見えたかもしれない。
ロケットの発射を見守る人々の中に、搭乗員であるベティの双子の姉妹であるアンの姿があった。アンとベティはともに20歳。二人は小さい頃から何をするにも一緒で、誰もが羨むような仲の良い兄弟だったが、二人の性格は全く反対だった。姉のアンは引込み思案で熟慮して行動するタイプだったが、妹のベティは才気煥発、好奇心旺盛で、だからこそそんな二人が互いの良い所を認め合うことが出来たのかもしれない。アンにはベティの行動がときに危なっかしく思えることもあったけれど、何事も恐れないそのさまはアンにとって羨望を感じることもあった。
ベティが突然、宇宙飛行士になりたいと言い出したのは半年ほど前だった。
しかもすでに宇宙センターの厳しい審査をパスした後のことだった。無論家族の誰もが反対をしたが、ベティを説得することは不可能だった。熱に浮かされたように宇宙の神秘を夢見るベティには、それ以外のどんな言葉もうつろにしか響かなかったのだ。
もはや誰にもベティを止めることは出来なかった。もちろん、この探査でベティの身の上に起こる現象は誰もが理解はしていた。すなわち、光速に近い速度で巡航するベティのロケットでは時間の歩みが地球より遅くなるということである。ベティのロケットが24.5光年先の惑星に到着するのに25年かかる。ベティが帰ってくるのは2050年の予定だ。しかし、その期間はベティにとっては地球を出発してから10年が経過したとしか感じられないだろう。
ベティの両親、友人たち、そしてアンは誰もが今生の別れを覚悟してベティを見送るしかなかった。
「もう、そんな景気の悪い顔しないでよぉ。これからさあ、私、いっぱいいっぱいいろんなこと見てくるんだから。きっとまた会えるよね、アン。おみやげ持ってくるね。それまでは絶対くたばっちゃダメよ。」
そう、こんなときにも無理に明るく振る舞えるのはベティだからこそだった。笑顔が戻ったアンたちは、心の中にある小さな悲しみをこらえて、ベティのこれからの宇宙の旅を心から祝福し、ロケットに乗るベティを見送った。
ロケットは真っ赤な炎を噴射して発射台から飛び立った。そして、人々の不安と期待が交錯する中、ベティの未踏の旅が始まったのだった。

アンに彼氏ができたのはベティの旅立ちから半年後のことだった。
アンは恋愛にもおくてだったから、デイヴから最初にデートの誘いを受けたときはからかわれているとも思ったりした。しかし、おっとりしていながらも熱心に夢を語るデイヴにアンは段々惹かれていった。ベティが旅立って以来、寂しく感じていた折りだったので、そのアンを励ますデイヴの存在は彼女にとっても頼もしい人に思えた。
アンは宇宙センターに頼んで、デイヴと一緒にビデオレターを送ることにした。
「あれからこっちでは半年が経ったけど、ベティは元気してる?
ベティ、ねえ聞いて。私に彼氏が出来たの。信じられない、なんて言わないでね。今は彼に夢中なの。ベティがいなくなってしばらく寂しかったけど、今は大丈夫だわ。彼を紹介するわ。ほら、彼がデイヴ。」
「やあ、はじめまして、ベティ。最初にベティのことを聞いたときはびっくりしたよ。僕も宇宙のことには興味があるんだ。もし会えることがあったら、いろんな話を聞かせてね。」
もちろん、このビデオレターが届くのはずっとずっと先のことに違いない。でも、アンはデイヴと一緒にいて楽しそうにしている自分を、どうしてもベティに見てもらいたかった。ベティのように自分も幸せをつかもうとしていることを、ベティに知ってもらいたかったのだ。

アンのもとにベティからのビデオレターが届いたのは、2009年も暮れに近いある日のことだった。
アンとデイヴは5年前に結婚した。そして今では二人の間に生まれた2才の女の子と3人で幸せな家庭を築いていた。
「デイヴ、アンからビデオレターが届いたのよ。」
「へえー、アンからの便りって初めてじゃないかい?」
「そう、もう10年もたつのに、これが初めての便りね。ベティは元気かしら」
二人は、矢も楯もたまらずビデオレターを見るためにモニターのある部屋に向かう。そしてモニターの前に座ると、すぐにスイッチを入れた。懐かしい声が聞こえてきた。
「アンお姉さん、お変わりはないですか。 地球を出発してから1年が過ぎました。話し相手がいないのはちょっと寂しいけど、毎日お決まりの観測の仕事があるし、暇なときは本を読んだり、山のように持ってきた映画を見たりしているわ。私って意外と孤独に耐えれるみたい。
今ごろ、お姉さんは何をしているかしら?お姉さん、結婚してるかなあ。
私はこのとおり元気よ。ちょっと食事のほうは不満はあるけど、船内は意外と快適なのよ。窓から見える宇宙は、青方偏移で不思議な感じに歪んでいて面白いわ。
私の時間ではアンと会えるにはあと9年。まだずいぶん先のことだけど、地球に降り立って一番最初に会いたいのは、アンお姉さん、あなたよ。」
ベティの元気そうな姿は10年ぶりだった。しかし、モニターに写るベティは出発した頃とほとんど変った感じがしない、20歳当時のベティだ。彼女自身があれから1年が過ぎたと言っているのだから間違いはない。モニターに写っているベティはまだ21歳なのだ。
「デイヴ、不思議ね。もう、あれから10年が経ったのに、こうやって届いた便りはまだ1年しか経っていないなんて。それに、結婚してるかなあ、だって。フフ、今の私たちの姿を見せてあげたいわね。」
「確かに不思議な感じはするけど、理屈には合っているのさ、アン。ベティの乗ったロケットは光速の98%の速度で飛んでいる。そのベティの宇宙船の中では、私たちの時間と比べると5倍時間の進み方が遅いんだ。
ベティがこのビデオレターを出したのが、彼女の時間で1年後。つまり、私たちの時間で5年後と言うことになる。つまり彼女がビデオレターを送ったのは、地球から4.9光年離れた地点だったんだ。ビデオレターも電波で送られてくるから、そこから地球に届くまで4.9年。つまり私たちの時間で出発から9.9年後の今、ということになるんだ。」
「そう、このビデオレターも長い旅をしてきたのね。光が何年もかかるほど遠いところにいるなんて、信じられない。ベティは今ごろ、何をしているのかしら。ねえ、デイヴ、今彼女はどの辺にいるの、そして何歳になっているの?」
「アン、そう問いたい気持ちは分かるよ。でも、その質問には答えがない。
なぜなら、我々とベティは異なる時間を生きていて、共通の<今>を持っていないからなんだ。もちろん、我々の時間の尺度で彼女の位置を推測することは出来る。しかし、ベティにとってもまた、地球は光速の98%で自分から遠ざかっており、彼女の時間で測った<今>は我々のものとは一致しないんだ。
この宇宙の中には、絶対時間は存在しない。全ては相対的な運動や重力の関係で時間の進み方が変っていく。僕たちの時間だけが真実ではない。アンとベティはもはや、異なる時空を生きてしまっているのさ。そして、それはアン、君とベティだけの問題ではないかもしれないよ。」


ベティが出発してから、長い月日が流れた。
アンの娘は立派に成長し、そして娘もまた結婚した。そしていつしか、アンはおばあちゃんと呼ばれるほどの年齢に達していた。
アンにとっては、もはやベティはおとぎばなしの世界の主人公としか思えなくなっていた。もしかしたら、ベティなんて本当はいなかったのかもしれない。私の20歳までの記憶がただ何か混乱してしまっているだけかもしれない。そんなふうに思ったりもした。でも、ベティが実在していることをアンは何としても見届けなければならない。
デイヴは数年前に病気で死んだ。結局、デイヴはベティと一度も会うこともなかった。デイヴは最後までそれが残念だと繰り返し言っていた。アンとて、デイヴと二人でベティを迎えることを楽しみにしていたのに。
2049年の中ごろ、つまりベティが帰ってくる半年前、ベティからビデオレターが届いていると宇宙センターから連絡があった。そう、まさに40年ぶりのベティからの知らせだ。アンはすぐにモニターのスイッチを入れた。あの頃とほとんど変らないベティの声だ。
「アンお姉さん、元気?
私は、ようやく目的地に着いて、今調査しているところよ。たくさんの収穫があったわ。細かいことは宇宙センターのほうに送っているけど、今とても興奮してるの。だって、5年もの間変化のない生活だったもの。でも、調査はすぐに終えて、明日には地球に向かって帰る予定。アン待っていてね。
そうそう、お姉さんからのビデオレターついさっき届いた所よ。へえ、あのアンお姉さんに彼氏かあ、信じられないってつい言いそうになっちゃった。ごめんね。もしかしたら今ごろはデイヴと仲良く暮らしているのかしら。お姉さんが幸せそうで何よりだわ。 私も元気よ。早くお姉さんと会いたいわ。」
それは、49年前にアンが出したビデオレターへのベティからの返事だった。何と無情な時間のいたずらだろう。アンはビデオが終わっても、しばらくモニターのスイッチを止めることさえ出来なかった。
そして 「ベティ、もう遅すぎるのよ...」そうつぶやくのが精一杯だった。

半年後、無事ベティは地上に降り立った。
ベティの時間では10年が経過しており、ベティは30歳を迎えた頃だった。
ベティの友人も、そしてアンももはや70歳近い老人ばかりだ。みんなは、ベティの帰還を祝ってパーティを開いた。昔話に花が咲いた。しかし、どの人と話しても一番昔話を覚えていたのはベティだった。ベティにとってあんなに面白かった出来事も、ベティの友人は誰も覚えていないのだ。そしてベティは、地球時間が持つ歴史の中に、もう自分が溶け込めないことをだんだんと実感していた。
アンとベティ、二人はお互いの辛さがよくわかっていた。二つの異なる時空を生きた二人はまた、宇宙に内在するその不条理さを身を持って体験した。そして二人の体験は、これまで誰一人として経験したことがないものだった、ということだけは確かな事実だろうと思われる。


参考文献:「時間について」ポール・デイヴィス著、林一訳(早川書房)


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