利己的な遺伝子【BOOK】

リチャード・ドーキンス著/紀伊国屋書店

またまた、よせばいいのに、専門書シリーズなのです。
ちょっと前に「進化心理学」に関する談話を書きましたが、この進化心理学に興味を持てば、自然とこの有名な本「利己的な遺伝子」を読まずにはいられなくなるのです。
この本、専門書といっても、決して難しい数式や生物学用語などが頻出するようなものではありません。むしろ、専門外の人が読んでも十分わかる範囲の語彙で書かれています。
しかし、とはいってもこの本がわかりやすくて易しい内容という意味ではないのです。この本の理解にはそれなりの思考が要求されます。科学的、社会的、哲学的、様々な方向性の理解力が必要です。はっきり言えば、これは生物学の本とはとても言えないのです。敢えて言うなら、科学の顔を持った新時代の哲学書なのかもしれません。もし、あなたが、世界のあるゆる諸相を知りたいと思うファウスト的人間なら、この本は絶対読むべきです。恐らく、人生観が揺らぎます。

少し前ふりが大げさすぎたでしょうか。
しかし、古来多くの哲学者・宗教家は、人生とは何か?死とは何か?そして、人間とは何か?そうずっと問うてきたのではないでしょうか。
少なくとも、この本にはその答えの一部が書いてあります。無論、人文学的なアプローチではありません。でも私は新時代の宗教、哲学は科学の中にあるのではないかと密かに考えています。だから、この本はやはり哲学書といってもいいのです。

この本で最も重要な主張の一つは、生物がよりよい方向に進化しようとする単位は、種でもなく、また個体でもなく、遺伝子である、ということです。唐突にそう言われても、何のことだかわからないかもしれません。もう少し、別の角度から言えば、生物が進化することは誰のための利益なのか?ということです。
昔は理科の教科書で、「種の保存」なんて言葉を聞いたような気がします。これは、その種が自らの種を保存しようとする意思があるというようなことだったと思いますが、こういった考えをドーキンスは完全に否定します。
この世の生物界にとって、生き残ろうとする意思を持っているのは遺伝子のみであり、その利己的とも言える振る舞いに、生物は完全に服従させられているのです。各生物個体は、遺伝子が生き延びるための単なる乗り物であり、ドーキンスはこれを「生存機械(survival machine)」と呼びます。
そう、我々一人一人も、自分の持っている遺伝子が生き残ろうとするための単なる生存機械です。一見、自分が幸せになるように生きているつもりでも、それは自分の遺伝子が生き残るために、巧妙に仕組んだ仕掛けに従って生きているだけなのです。

こんなことを言うと、遺伝子がまるで何らかの意思を持って自立的に行動をしているかのようです。
もちろん、遺伝子は単なる分子の配列で、それが自分で考えて動いているわけではありません。遺伝子がそのように利己的に振舞っているように見えるのは、全て「自然淘汰(natural selection)」のせいなのです。世の中に必要のない遺伝子を持つ生物は死滅します。結果的に、自然が淘汰することによって、遺伝子が望んでいる方向が決まり、その道筋に遺伝子の意思を感じているだけなのです。しかし、著者はそこから派生する現象を説明しやすくするように、敢えて利己的に振舞う遺伝子、という言い方をしているのです。

しかし、そもそもこの遺伝子とは何か、という疑問がわかないでしょうか?
これは生物とは何か?なぜ生物は生まれたのか?という問いに直結します。
一言で言えば、遺伝子とは自らを複製できる力を持った一つの単位、なのです。これをドーキンスは「自己複製子」と呼びます。
太古の地球では、化学反応により海の中に様々な有機物が漂っていました。この「原始のスープ」の中で、たまたまある分子が、自らを複製できる能力を手に入れたのです。この分子は、あっという間に増えていきます。それまで、いろいろな種類の分子が漂っていた太古のスープに、特定の分子の割合が増えていったのです。
この過程の中で、自己複製子の中でも、違う種類のものが途中で生まれたかもしれません。そうなると、より効率よく複製するほうが割合が増えます。また、自己複製子は自らを守るための壁を持つようになります(細胞壁)。時には、他の自己複製子を破壊するものも現れます。
これが、生物の起源と言われるものの正体です。始まりは、ただのコピーだったのです。「自己複製」これこそが、遺伝子の始まりであり、そして生命の大元であったのです。

目からうろこの連続ですが、これだけでも実はこの本のほんの触りです。
この後、生物の様々な活動がどのように遺伝子の利己性によって説明できるかが書かれています。この中では、ESS(進化的に安定な戦略)というのが非常に興味深く感じました。また、有性生殖における生物行動、個体同士の協力行動など、進化心理学的な内容もたくさん書いてありました。細かいことはここで書くのはやめておきます。内容を知りたい方は是非この本を読んでみてください。

「ミーム」、「囚人のジレンマ」など、小ネタとして使えそうな(ちょっとした教養になりそうな)内容もたくさんあります。
また、著者のドーキンスの文章からは、この遺伝子の話を単なる生物学的なレベルに留めておきたくない野心が垣間見え、まさに思想・哲学の領域まで踏み込んだ本と言っても差し支えないような気がしています。
最終章では、そのような自己複製子が単に自分を増やすのでなく、なぜ、一つの生物個体が作られそれが死滅する、というサイクルを通して自己複製してきたのか、それに対する著者の考えが示されます。無論これも、自然淘汰の賜物なのですが、それでも、生死に関する一つの答えとして、人間には重く響きます。



マトリックス リローデッド/レボリューションズ【MOVIE】


<リローデッド>
疲れるなあ、この映画見るの。
でも、予想の範囲ではあるけど、面白かったです、マトリックス。
はっきり言わせてもらうと、こういう内容の映画は昔ならB級SF映画的と言われてもおかしくないのですが、なんでこんなに爆発的にヒットしているんでしょう?これだけお金をかけて、こんなにマニアックな映画を作れるなんて、今の世の中不思議なものですね。
確かに、特撮で大きな話題になった第一作からちょうどいいくらいの間隔で、しかも事前の話題の盛り上げ方もうまかった。いろいろなメディアで取り上げられていて、注目度も非常に高かったし、公開前から大ヒットになるのは確実だったのかもしれません。それにしても、流行ってるからと理由だけで軽いノリで見に来た観客の中には、さっぱりわけがわからん、と思って帰っていく人も多いのではないでしょうか。少なくとも、前回のマトリックスの内容について事前に知っておくことが大前提になってますし。

この映画の見所は、特撮によるアクション、そして作品世界の設定、の二つに分けられると思います。
作品世界の設定に関しては、前回マトリックスで、機械と人間との戦争、そして機械の勝利、少人数で戦う人類、という大前提がすでに提示されています。そして、人間は機械に飼育され発電エネルギーとして使われますが、その代わりマトリックスという仮想現実の中で嘘の人生を生かされている、という設定になっています。まあ、この筋立て自体、B級SF的(悪い意味ではなくて、大衆的に理解されがたいということ)だし、マンガ、アニメっぽい。実際、マトリックスの世界は、日本のアニメに強く影響されて作られていることが知られています。
今回は、上の設定の中でも、マトリックスそのものが焦点になります。最終的に、マトリックスの設計者なんてのが現れるわけですが、あまりに抽象的で、意味が濃すぎるセリフのシーンで、頭はパンク寸前にさせられます。最初から、理解するのを拒否しちゃう人もいるでしょうね。こういうノリをサイバーパンクとでも言うのでしょうか。一見難解なんだけど、全人類を取るか、愛する人を取るか、みたいな俗っぽい二者択一を迫るあたりにストーリーの甘さをちょっと感じます。
私自身もコンピュータのプログラムを日々書いているわけですが、マトリックスに現れる全ての現象はソフトウェアで記述されているという設定なので、思わずいろいろ考えさせられてしまいます。もちろん技術的には荒唐無稽な設定なのだけど、コンピュータとそのソフトウェアの本質について、何らかの哲学的な問いを感じさせる映画です。

アクションは、私がここで述べるまでもないでしょう。前作をはるかに凌ぐ特撮シーンは確かにすごいですが、全部がすごすぎて、凄いことが実感できないほど鈍感になっちゃいます。何事もやりすぎは良くないのです。
あと気になるのは、新たな登場人物が多いのだけど、全てがちょい役になってしまっている感じです。もう少し新キャラは少なくして、その代わりもっと映画全体で活躍させてあげればいいのにと思ってしまいました。

何はともあれ、やはり面白いです。もちろん、次回も見ます。アニマトリックスも買ってしまいました。^^;
この映画もいずれはDVDで手に入れて、良く理解できなかったところ、もう一度確認してみたいです。
なんだかんだ言いながら、実際私はこういったB級テイストのSF映画ってとても好きなんですよ。


<レボリューションズ>
乗りかかった船なので、見ないわけにはいきません。でも、感想はリローデッドの項とまとめてということで。^^;

それで、結局、見終わったときに思ったことは、うーん何だこりゃ、ということ。
つまり、説明が足りなさすぎて何だかわからないことが多すぎるのです。しかも、そのわからない理由は、あなたが頭が悪いからだと言わんばかりのノリ。例えば、最後の最後で「あなたは全てを知っていたのですね」みたいなセリフがあるのだけど、そんなこと言われるほど驚くような事実が観客に提示されたとも思えません。その全てってなんだよー、教えてくれよー、と思わず私は言いたくなります。
というか、この映画、難解というよりは、どうも難解さを演出させることにこだわっているように感じてしまいます。
抽象的な表現を多用し、格言みたいな言葉ばかり踊らすのです。そのくせ観客が知りたいと思う事実は何も言わないまま、「あなたはすでに選択している」とか「そういうことだったのか」とか思わせぶりなセリフばかり。哲学的な会話は必ず、愛がどうのこうのという突っ込みようのない独り言で終わってしまう・・・。正直に言うと、あんまりセンスの良い難解さとは思えないのです。
例えば、過去のSFの名作には、感じる人には感じられるそれなりの深いテーマがあったし、難解と呼ばれているものは、製作者自体がわざと多義的に残しておいたりしたような場合が多いと感じます。
でもこの映画の場合、深いテーマらしきものは特に感じられないのに、わざとわからなくさせたり(というか深い意味があるように見せかけたり)、中途半端に哲学的なセリフが多すぎます。

もちろん、マトリックスの世界観そのものがとても面白いことに変わりありません。
しかし、その設定を生かすのならもっとB級的であっても良かったんじゃないかなと思うんです。つまり、ドンパチの末に主人公がきちんと勝ち、最後にそれなりにすっきりする形で謎は明かされる、というような。そのためには、謎をかえって多くするようなことをしちゃいけませんし、ヒロインも途中で死んではいけません。

ただし大筋は誰でもわかるようになっているのが、またこの映画の憎いところ。つまりネオのおかげでザイオンは救われて「良かった!」ということだけは、きちんとストーリーになってます。逆に別の意味でB級度を増して、いっそのことザイオンなんかどうでもいいという話の展開もあったとは思いますけど(例えばザイオンさえも幻だったみたいな、つまり仮想の迷宮の中で一体リアルなこととは何なのか、というような問いとか)・・・、まあ、そんなことしたらとても一般の人は見てくれなくなっちゃいますね。
いずれにしても変に製作側が大作であることを意識しちゃったのが、良くなかったような気がしてなりません。

いろいろと文句は言ったものの、3作まとめてDVD化されたら買ってみて、もうちょっと意味深な言葉の内容を繋げてみたいと思っていたりします。まあ、この感想は最初に見たときの感想ということで、もしかしたら後で気が変わるかもしれませんし・・・


HERO【MOVIE】


話題の中国映画「英雄 -HERO-」観ました。
いやあ、これはいい映画です。久しぶりに自分的にヒットしました。
そして恐らく、私がこの映画をいいと思ったのは、内容の寓話性ゆえでしょう。どうやら私は寓話性の高い話が好きらしい。この映画を観ると、そういう自分の嗜好に改めて気付かされます。
では、寓話性の高さはどのような表現に結びつくか?それは物語の抽象度が高くなったり、物語に散りばめられたシンボルの読み取りが必要になったり、例えばこの映画なら、話の入れ子構造のような、高度な構造性を持つといったようなことが起こるわけです。
だいたいこういった構造性を持つというのは、映画ではあんまり一般的ではないように思います。やはり普通は、物語がリニアに展開していく方が、一般の受けが良いでしょう。
そこにこの映画の渋い面白さがあります。ストーリーが構造性を持つため、構造の一単位である各エピソードには統一された主題が必要になります。この映画の場合、その主題は色で表されます。従って、一つのエピソードに出てくる色はほぼ統一されており、それが各エピソードをシンボライズしているわけです。
しかし、このように映像上で主題を表すようにしてしまったため、映像に不要なものを全く廃してしまうことになりました。例えば、各アクションシーンは砂漠の中、岩山の中、湖の上などいずれも寂れた場所で、映像には登場人物以外の人は全く現れないのです。結果的に、物語はリアリティから全く隔絶され、抽象度の高い寓話的な世界観をよりいっそう助長します。
この映画を見た多くの人が「映像が美しい」といいます。恐らく、監督も映像の質にはそれなりにこだわりを持っていたでしょうが、どちらかというと映像が美しく感じるのは上のような映画作りの副産物であるような気がしています。

もう少し、この構造性の話をさせてください。
物語の中盤、(見た目には)同じ結果をもたらす3つの異なるエピソードが並置されます。最初の二つは実は嘘で、最後のエピソードのみが物語として正しいわけです。しかし、その3つはきちんとその結果(アウトプット、出力)が合わされます。そこに、脚本のこだわりみたいなものを感じます。例えば、3つに共通していることは、秦軍内での無名との決闘前に、必ず女性剣士、飛雪残剣を刺すことです。しかし、その理由が、1回目は嫉妬から、2回目は逆に残剣を助けるため、そして真実である3回目は、暗殺を無意味だと言い出す残剣と意見が対立したためです。
物語としては飛雪が秦軍内の決闘で敗れることだけ共通されていれば良いのに、残剣が飛雪に刺されるシーンを敢えて各エピソードに散りばめることにより、その主題の違いを明確にさせたいという意図が何となく感じられるのです。

実のところ、このような構造性のある寓話的な映画だからこそ、中国発の世界市場向けの映画が出来たのではないかと感じています。
もし、現在の風俗や社会を題材に取った映画を作ったのなら、これはどう考えてもハリウッド映画には適わないでしょう。あるいは、この映画を作ったのは、中国内でもかなりの才能を持った人たちで、彼ら自身がエンターテインメント性を保ちながら芸術性を高める題材としてこういう方法が適当だ、ということをとてもよく知っていたのかもしれません。まさに、現在の中国の元気さを文化的にも感じさせてくれる映画です。

アクションは、流行りのワイヤーアクションっていうんですか。この辺りは、この映画だけの専売特許じゃないし、それなりのスタッフを集めれば出来るものなのでしょう。ただ個人的には、どうもあのワイヤーアクションによる動きが自然の力学法則をあまりに無視しているような気がして、評価する気にはなれません。特にジャンプして、剣を相手に向けながら真横に飛んでくるシーンはちょっといただけません。
マトリックス以来、アクションのスローモーション化(マンガのような停止した絵の感覚)、非現実なジャンプなどが、いろいろな映画で観られるようになり、この映画もその流れには逆らえなかったようです。湖水の上を跳ねながら戦うのは、元より想像上の戦いなので、問題ないということか。

いずれにしても、久しぶりに「ほぉ〜」と思うような映画を観ました。最後にはきちんと泣き場所も用意されており、決してお高くとまった芸術性重視だけの映画ではありません。音楽も情緒があってよかった。(タン・ドゥンなんですね)
この映画のように、芸術性も湛えながら、お決まりのエンターテインメント(アクション、泣かせ)がある映画こそ、面白いといわれる映画なのでしょう。


another mind【CD】

上原ひろみ/TELARC CD-83558

今、話題の女性ジャズピアニスト上原ひろみのデビューアルバムを聴きました。
もっとも、私はジャズファンとは程遠い場所にはいますが、凄いといわれると気になって、そういえば以前も大西順子のアルバムを何枚か買いましたっけ。最近気になって、大西順子で検索してみたら、どうも数年前に忽然と姿を消してしまったとか・・・彼女はどこに行ってしまったんでしょうねえ。
話はそれましたが、この上原ひろみ、ヤマハ関係者ということもあり、社内で話を聞く頻度もちょっと高く、名前くらいは聞いていたのです。でも、ここんとこヤマハ出身のアーティストってちょっと冴えなかったんで、そんなに期待していなかったというのが正直なところ。
最近、ビールの宣伝でピアノ弾いているのを見て、へぇーかっこいいじゃん、と思って、CD店に立ち寄ったとき、試聴コーナーにあったので、ちょっと聞いてみたのです。
聞いて、チョ〜びっくり!これはプログレではないですか!!絶対、買い!と思い、早速手に入れたしだいです。

それで一通り、聞いて思ったこと、まるでプログレだったのは冒頭一曲の"XYZ"のみ。ちょっとやられたと思ったけど、その他の曲もジャズというよりは、フュージョンという感じでジャズ度はあんまり高くないです。
冒頭の"XYZ"は、もろ変拍子バリバリ、ピアノ弾きまくり、まるでキース・エマーソンを思い起こさせるようなフレーズ。これをプログレと言わず何と言うべきでしょう!この一曲を聴くだけでも、このCDを買った意味はあったと思います。
他にも変拍子を持つ曲はいくつかあり、気持ちよくすんなり聴けてしまうような音楽でないことは確か。ジャズの世界にいながら、クラシック、ロック等あらゆる音楽の要素が詰まっており、また音楽への態度は、順番だけ決めて延々と即興を行うジャズの世界とちょっと違って、しっかりと曲の構成を考えて作曲をしているようにも感じられます。
表題作"another mind"の叙情世界もなんとなく私のフィーリングに合い(ちょっとクリムゾン的)、個人的にはとても共感できるアーティストだと思いました。

何といっても、圧倒的なピアノ演奏に、ピアノがド下手な私は、もうただただ羨望の念を抱くしかないのです。これからどんな面白い音楽を作り出してくれるか楽しみ。どうせ、ツウ好みの音楽なのだから、変に売れることを意識しないで活動してもらいたいものです。



銃・病原菌・鉄【BOOK】

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰訳/草思社

このところ、個人的に興味のある分野として、進化心理学や遺伝子の話、人類の進化などの話題をよく書いていたのはご存知の通り。結局のところ、これらの共通点というのは「人間」ということなのだと思うのです。人間とは何か?どうして、このような特殊な動物が生まれたのか?人間がこのような社会をどうやって作ったのか?そういった、人間に対する興味、人間がこれまで段階的に発展してきた過程に対する興味というのが、どうも最近の私のテーマのようです。
そして、この興味に対して、ほとんどストレートに答えてくれるのがこの本。著者ダイアモンドは、最後の氷河期が終わった13000年前をスタートラインとして、各大陸に移り住んだ人間たちがどのようにして文明を発達させたか、またその文明のレベル差が生まれたのはどうしてか、二つの文明が不幸な出会いをしたとき、その優劣を決定したものは何だったのか、を科学的なアプローチで詳細に解説したのが本書なのです。題名でほとんど察せられると思うのですが、例えば、アメリカ大陸をヨーロッパ人が発見した後、そこに昔から住んでいたインディアン、アステカ帝国、インカ帝国が次々と滅んでしまった、その原因を象徴するものとして、この「銃・病原菌・鉄」という言葉が一つのキーワードになっているわけです。

この本、上下巻二冊もあり、相当な分量ですが、実は一緒に同じ著者による「人間はどこまでチンパンジーか?」という本も購入し、この半月ほど、ダイアモンド氏による著作にずっとはまりまくっていました。
読んでいて感じたのは、先ず何といってもこのダイアモンド氏が超博学であること!もともと生物学の研究者らしいのだけれど、もちろん自身の研究に近い進化、遺伝などの話はもちろんのこと、動植物に関する内容、歴史・言語に関する内容など、どれも最新の研究による一線級の話題ばかりで、この人の恐ろしいほどの知識欲、そしてそれらを貪欲に吸収できるその能力にまず驚きます。それが、若干、勇み足的な推論をしてしまうこともあるように感じますが、氏の考え方全般は非常に理知的かつ論理的であり、ジャンルを超えて様々な知識があるからこそ初めて見える、人類史全体にわたる真理に近づいているのだと思うのです。

この本の主題は、簡単に言ってしまえば、ユーラシア大陸で生まれた文明が、結局、アメリカ大陸、オーストラリア大陸、アフリカ大陸で独自に発展した文明を駆逐してしまったのは何故か、という問いに対する答えということになります。もちろん、その象徴的な話題として、スペイン人によるアステカ文明の滅亡やインカ帝国の滅亡の話題にも触れます。また、オーストラリアや、太平洋上の小さな島々に住む原住民が、いかにヨーロッパ人に駆逐されてしまったかについても語られます。
もちろん、これらの文明の衝突に際し、銃による大量殺戮があったのは確かですが、実はヨーロッパ人が持ち込んだ病原菌が、ほとんど壊滅的なダメージを与えたということも大きな要因の一つなのです。なぜ、ヨーロッパ人に比べてその他の大陸の人間の方が病原菌に対する免疫力がなかったのか、この辺りはパッと考えると逆のようにも思えるのですが、実は農業や牧畜によって富が集約され、たくさんの人間が集まる都市が出来たからこそ病原菌が発生しやすくなり、長い歴史による淘汰によってヨーロッパ人が病原菌に強い体質になっていくことが説明されるのです。しかもその病原菌は家畜由来のものが多く、家畜を持たなかった人々には免疫力が全くなかったことも大きな理由の一つです。

ヨーロッパ文明が、その他の大陸の原住民による文明を駆逐した直接の原因は、もちろん銃・病原菌・鉄ということになるのですが、それではその遠因となるものは何だったのでしょうか。
全く同じスタートラインから始めて、大陸ごとに文明の発展度が違ったのは、何故でしょうか?ダイアモンド氏はこの答えとして、民族に能力差があるという考え方に対して、明確に否定の態度を取ります。むしろ、こういった考え方を否定するためにこの本が書かれたとも私には思えます。
この原因は、簡単に言ってしまえば、環境の差によるもの、という一言に尽きるわけです。そして、どういう環境の差がこのような文明の差を生じさせたのかを、詳細に綴ります。もちろん最も大きな差は、狩猟採集生活から、農業、牧畜などによる食糧生産への社会の移行ということになるわけで、環境がこの移行にどのように影響したかが大きな焦点となります。
また、農業や牧畜、兵器などの技術の伝播がどのように行われたも重要です。技術は様々なものが同時多発的に起こったわけでなく、あるところで生まれた技術が広く伝播することで世の中に広まります。ユーラシア大陸は東西に広く、同じような天候と環境だったからこそ、技術が伝播しやすかったのですが、アフリカやアメリカ大陸は南北に長く、技術が伝わる前提となる環境が異なっていたことで、技術の伝播がほとんどありませんでした。アメリカ大陸では、ヨーロッパ人が来るまで、インディアン、アステカ、インカ同士はお互いの存在さえ全く気付いていなかったのです。

この本を読んだあとのイメージは、今までの私が漠然と思っていたことをかなり修正したものとなりました。
人種は人類の歴史を通して、私が思っていた以上にかなりダイナミックに変化しています。全ての人種が同じような人口比率のままだったわけでなく、時には一つの人種(集団)が完全に滅んでしまったり、同じ土地に住む人間が完全に置き換わってしまったりするように、人間の集団に対しても大きな目で見れば生物進化の淘汰に近いことが起こっているのです。これは、人間そのものに対してだけでなく、例えば言語のような文化の部類に入るものでも、容赦なくダイナミックな滅びと拡大が起こっています。
人間、文化、というものを考える際、大きな手助けになる一冊、もとい二冊だと思います。




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