高丘親王航海記【BOOK】

渋澤龍彦著/文芸春秋社

私は決して熱心な渋澤龍彦の読者ではないのですが、渋澤龍彦というと一連のサドの翻訳ものとか、あやしげなエッセイ集の著者というイメージがあり、この「高丘親王航海記」という題名がちょっと不釣り合いな感じがしていました。
しかし、実際にはこの小説の持つ幻想的な雰囲気はやはりまさに氏の作品そのものだとも思われますし、小説にちりばめられたさまざまなオブジェが作者の博学指向をまさに示しているように感じました。
この小説は、一つの連続した長いストーリーではなく、なんとかの巻、といったように章そのものが一つの完結した世界を作り上げていくスタイルとなっています。そういった方法そのものが、明らかにこの小説世界の方向性を明示しています。小説をストーリーで楽しむのではなく、小さなエピソードの集結によって一種の博学的な面白さを追及しているわけです。
などと、文学の門外漢が言うのもおこがましいので、私自身の感想など。
とその前に、簡単に内容を言いますと、平城帝の息子である高丘親王が長年の夢であった天竺を目指し、彼の家来数名と旅をしていくその道中記ということになります。
私がこの本を読んで一番感じたことは、むろんその内容の幻想的なエピソードの面白さもあるのですが、単に東南アジアを旅行するという今では何でもないような行為が、古い時代ゆえの迷信とか未知の世界への憧れとかそういうもののために、とてつもない冒険に見えたりわくわくどきどきできることに感じられる面白さというのか、そんなことを思ったのです。今ならテレビをつければ地球上の裏側のことだってわかるし、写真で見ることもできる。でも、地球が丸いことを知らなかった昔の人がいろいろな地球の形を想像したように、自分が聞いたこともない土地の様子をあれこれ思い巡らし、そして天国のように憧れる、そんな気持ちが多くを知りすぎた私たちにはもうできないことなのだな、と一抹の寂しさも感じたりするのです。
この本はそんな私たちの忘れかけたロマンを思い起こさせてくれます。そして旅先で出会う美しいお姫様や不思議な動物たちを想像することはなんて楽しいことでしょう!
(97/2/2)


Forgotten Peoples【CD】

Veljo Tormis
Estonian Philharmonic Chamber Choir/Cond. Tonu Kaljuste
ECM 1459/60

このCDを買ったのは最近というわけではないのですが、ここ数ヵ月のうちに買った合唱CDの中では抜群の面白さだったので、紹介します。
合唱を趣味とし、自らいくつかの合唱団で歌ったり指揮したりしていると、合唱音楽そのものが一般の音楽マーケットの中でどのような地位を占めているかだんだん忘れていくような危惧を感じるものです。もともと、合唱のコンサートを聞くのは合唱関係の人ばかりで、一般のリスナーから見れば合唱というジャンルはとても閉鎖的に見えることでしょう。
このCDの曲を聞いて、合唱という立場を離れて聞いても十分気持ちいい音楽なんではないか、ということを久しぶりに感じたのです。
簡単に内容を解説しましょう。エストニアの作曲家トルミスの手による無伴奏混声合唱曲集で、どの曲もバルト海沿岸の諸国の民謡を素材にしたものです。CDは2枚組。
この気持ちよさを考えてみると、まず音楽が簡単であること。現代音楽のような難解な響きは一切ありません。また、同じメロディを執拗に繰り返すので、知らないうちに頭に刷り込まれていくのです。非常にリズミカルで現代的な感覚とも合います。そしてなんといってもエストニアのエキゾチックな旋律がたまりません。民謡に根差していますから、人々の暮らしの最も素朴な部分を感じさせ、演奏もしかめっ面で冷たい演奏とは無縁な暖かさを要求するのです。当然、このCDの演奏も一級のうまさです。
音楽の気持ちよさ、合唱の気持ちよさってこういうもんなんだよなあ、と久しぶりに感じたCDでした。
(97/2/2)


芸能山城組入門【CD】

芸能山城組
VICL23094

さて、これを読んだあなたは芸能山城組について知っていますか?私は実は知りませんでした。なんか怪しいエスニック調の芸人集団くらいにしか考えていなかったのですが、今から思うと知らなかったことが恥ずかしいくらいです。というのも、この集団が合唱から始まっているということ、それからそのネーミングのイメージとは裏腹に、実に真摯な態度で民族音楽について研究しているということを知ったからです。そして、そんな私にはぴったりのCDがこれ。この1枚の中に、芸能山城組のさまざまな演奏がつまっています。要するにベスト版というやつです。
冒頭は知る人ぞ知る「恐山」というデビューアルバムからです。くれぐれもこの曲の冒頭には気をつけてください。私はひどいめに会いました。それにしても、なんとおどろおどろしい音楽!人の声でここまで恐怖に駆り立てるのは並大抵のことではないです。できれば全曲聞きたい。
しかし、それから一転して、山城組は各国の民族音楽をそのレパートリーに入れていきます。それらは基本的に「歌」をベースにしたものですが、いわゆる西洋的なベルカント唱法ではなくて、どの歌もその当地の発声法を研究して模倣しているわけです。そしてそれらの表現は、現地の人も本物とみまごうほど完璧にマスターされています。よく知られているブルガリアンヴォイスとかも素晴しいし、ケチャの複雑なリズムも非常に楽しませてくれます。その他、アジア、アフリカのあらゆる地域の民族音楽の演奏が収録されています。
しかし、その中でも本場の日本民謡がまた味があります。実に情感がこもっていて、それで率直に美しいと言える雰囲気を持っています。たぶん、普通に民謡をやっている人がそのまま演奏するより、「聞かせる」という術を知っている分だけ、私たちに入り込みやすい音楽なのかもしれません。
とここまで書くと、大絶賛のようですね。もちろん、素晴しい。
ただ、オリジナルがもう一工夫欲しいような...。もちろん、全部聞いて見ないとわからないけど、いろいろなことを模倣してそれからもっと面白いノンジャンルな新たなものが生まれてきて欲しい、と欲張りにもそう思いました。とはいえ、まだ芸能山城組に「入門」したばかりなので、これからいろいろ聞いて見ようと思っているところです。
(97/3/20)


モンクとヒルデガルトの音楽【CD】

Hildegard von Bingen(1098-1179), Meredith Monk(b.1942)
Musica Sacra/conductor: Richard Westenburg
BVCT-1520

このCDも実は合唱がらみの音楽であります。いわゆるアカペラの合唱なんですが、特にモンクの場合は独自な発声法や表現が使われていて、アカデミックな意味での合唱とはまた違ったものとなっています。
このCDの基本的なコンセプトは中世のヒルデガルト・フォン・ビンゲンと現代のメレディス・モンクという二人の女性作曲家の作品を一枚にまとめることによって、これらの音楽に内在する神秘的な美しさが、時空を超えてもともに共通していることを浮かび上がらせようというものです。
むろん、作曲技法には違いがありますし、ヒルデガルトは中世という時代の束縛からはやはり離れることができません。それは、単旋律や平行オルガヌムといったようなものなのですが、それでもヒルデガルトの音楽には幅広い音域とか情熱的なメリスマなど独特の雰囲気を持っています。
そして、私自身面白いと感じたのはむしろモンクの音楽です。こちらは、たぶん現代のほかの作曲家から見ればきわめて単純な音楽でしょう。あるいは、単純な繰り返しが多いのがミニマル的とも言えますが、ミニマリストがミニマル音楽を作ろうとしてできた音楽とは本質的に違うような気がするのです。つまり、こういったスタイル自体、流行とはまったく無縁に彼女が探し当てたスタイルだったのではないでしょうか。
さきにも書いたように、モンクの音楽はいわゆる合唱という範疇でくくれない表現の多彩さがあります。また、これらの音楽はモンク自身が歌うアンサンブルグループのために作ったものであり、そのためもともと楽譜もなく、このCDのためにわざわざ自分以外の団体で歌えるように手直ししたらしいのです。つまり、表現と創作が表裏一体の関係をなして作られている、まったく新しいレベルの声楽作品ということも出来ましょう。
私がかねてから思っているのは、これからはこういう全く独自の感性を持ったアンサンブルが音楽をリードするのではないか、ということです。アカデミズムに毒されないとでも言いましょうか。だから、こういった型破りな表現活動には、今後ともしっかりとアンテナを張っていたいものです。
(97/3/20)


BOLERO【CD】

Mr.Children
TFCC-88099

いきなり傾向の違う、超売れ線のCDの登場です。といっても、実は私、ここのところほとんどまともなポピュラー曲のCDを買っていなかったんで、すごく新鮮に聞くことができました。このCDを買うきっかけになったのは朝日新聞のミスチルの特集です。それまでは時々耳にしていた程度だったのですが、そこでの4人の批評を見て、こりゃ一回聞いて見ようと思ったのでした。
正直言うならここで紹介したいほど感銘を受けた、というわけではないのですが、ある意味で最近の日本のポップスもまだまだ大丈夫だな、などと安心感を感じています。それにしてもミスチルのCDを聞いているかなりの人が、桜井氏の詩の持つ辛辣な意味を理解しているようには思えないんだけどねえ。非常に硬派だってことはわかっても、そうだよねえーなんていって簡単に受け入れちゃうみたいなようだと、彼等の本質は見えないと思うんです。
それで私なりに彼等の音楽を論じてみましょう。
まず、桜井氏は単なるポップスターであろうと思っているわけでなく、クラシックにも文学にも哲学にも興味あるファウストのような人間なんだと思います。私もかなり近い人間だと自分でも思っているんだけど、こういう人にとってジャンルなんて何の意味もないんです。いいと思うものはいい、ただそれだけ。だから、彼の詩の中は、自分の世界を広げるためにいろんな表現の仕方を取り入れている。場合によっては、かなり低俗な表現だったり、かと思うと心理学用語なんかがチラチラ入っていたりする。彼等にとってはどちらの表現もまったく同じレベルでの自己表現の言葉なんだと思うのです。
もう一つ、これは逆に注意しないと危ないと思うことなのですが、「日本」という言葉が多いし、また現代を憂う調子の社会派の顔が時々現われる。基本的に満たされない思いを歌い上げるのが詩人の役目なら、彼等はそれを外の世界に対して「あんたら、それは違うでしょう」と言ってしまう。一種のメッセージソングに近いものがあるのです。でも、彼等の感性を持ってしたら、その程度のレベルの低いメッセージなんかに堕して欲しくない、というのが私の率直な感想なのです。表題作「ボレロ」の詩、私は泣けてきます。こんな感性をもっともっと成長させて欲しいなって思います。
音楽的に言えば、はっきりいって、ジャパニーズポップの範疇に収まる保守的なものと言えるでしょうが、詩の乗り方にあったメロディセンスが上手で、今のご時勢にあっているのでしょう。私もカラオケ用に何曲か使えるし。
でもねえ、やっぱり音楽家なんだからもう少しサウンド的な冒険をして欲しいよね。仮にそれが多くのファンを失うことになったとしても。ビートルズが今だに輝くのは、そういったサウンド的な貪欲さが最後まで失われなかったことにあると思うんです。
なにはともあれ、こういったアーティストが小室勢に飲み込まれずに逞しく生き続けることを期待しています。

(97/5/18)


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