うたをうたってください


歌というものは不思議な力を持っているものだと常々思っていた。歌は少なからず私たちの思いや深い感情を代弁してくれるものである。人生において、どうしても勇気がなくて言えなかった一言が、メロディにのってしまえばいとも簡単に口から出てくるものだ。そして、そんな自分自身の気持ちをストレートに表現できない代償として、人はみな歌を歌うものなのかもしれない。
それまでの私はずいぶん内気な人間であったと思う。他人の気持ちばかり考えて自分の思ったことも言えなかったし、いざ言おうと思っても私の言葉には逡巡の響きが常にあった。そこで、私は考えたのである。そんな、歌の魔力を自分の人生に活かせないだろうかと。口篭って言えなかったあの一言が、歌なら自然に出てくる。ならば、自分の思いを歌を歌って人に告げたらどうだろうと。
幸い私は即興で歌を作るのが得意だったようである。そう思い始めたころから、いつも心の中でいろいろな曲を作っては反芻するようになった。たまには、一人で街を歩きながら歌うようなこともしたし、家の中で歌うこともあった。そうしているうちに、ふと自分の中から何かしら湧き出るものを感ずるようになった。そして、そんな自分の表現が多様化し表現が深まっていくことを確信するにつれ、何かしら得たいのしれない自信が身体中にみなぎるように感じられたのだった。

私には以前より好意を感じていた女性がいた。彼女はそれほどいでたちが目立つような人ではなかったが、聡明で端整な顔立ちをした美女だった。長い間、私は彼女とたわいもないような話しかしたことがなかった。一度でいいから、彼女を誘って二人で同じ時間を過ごしたいというのが長い間の私の希望だったのだ。
もちろん、私の即興歌には彼女への想いを歌ったものがたくさんある。それは、人が聞けば単なる流行歌のようなものであったかもしれない。しかし、自分にとってはその一字一句が私の気持ちを綴った大切な言葉であった。
そんなある日のことだった。ふとしたきっかけで、近くの駐車場までほんのちょっとの間彼女と二人で歩いていく機会が訪れた。しばらくいつものたわいない話をした後、だんだん私の中に歌への自信が高まっていくのが感じられたのは、自分でもずいぶん不思議に思えるほどだった。会話が途切れて少したったころ、私は静かに歌い始めていた。
気持ちいいほど私は素直だった。だんだん私の声は高まった。そして、歌の中でついに私は彼女を誘ってしまったのである。
そして彼女はにっこり微笑んで、そんな私の想いを受け入れてくれた。

それからは、私はそんな歌の魔力にとり憑かれてしまったらしい。私は歌で楽しいことを表現できたし、また怒ることもできた。みんなを陽気にさせたりしたし、諭すこともできるようになった。
とりわけ彼女といるときは、私はいつも歌いまくっていた。幸い、彼女はピアノがうまかったから、そんな私の即興の歌に、また即興の伴奏などをつけてくれたりした。彼女へのプロポーズのときは、延々15分は歌っていたであろう。私はまるでオペラのアリアを歌うように彼女への愛を歌い、そして軽やかにステップまで踏んでみせたのだった。彼女は自分では歌うようなことはしなかったけれども、そんな私に寄り添って、少し芝居がかった仕草で私のプロポーズに応えてくれたのだった。

彼女と一緒に暮らし始めて3年の月日が流れた。
彼女のために歌う機会は少なくなった。あるいは、それは二人の生活が安定化してきたためだったのかもしれない。
しかし、私にとって歌は自分の気持ちを表現するもの、という自覚が何時の間にか薄れていったことも確かだった。次第に私の歌は、いくぶん装飾の多い胡散臭さが目立つようになっていった。もちろん、私自身はそのような反省を感じることはなかったけれど、流行りの言葉で小賢しく飾るようになっていくのは多少気がついていた。しかし、それは自分の表現がより洗練されたものになったんだと勝手に思い込んでいたのである。
Kという女と出会ったのは、そんな折りのことだった。Kは流行のファッションを身に纏うスレンダーな美女だった。その容姿と陽気なあどけなさは私にとって十分に愛すべき存在だった。しばらくは私はKの前では歌うまい、と心に誓っていた。だから、Kと私の関係が深くなることもなかったのだが、Kは執拗に私に歌うようにねだるのが常だった。
Kにしてみれば、純粋な好奇心であったに違いない。それが無邪気であればあるほど、私には悩ましかった。今の私の歌なら、Kへのかりそめの愛を歌うことだって容易にできる。そして、その気にさえなれば、Kをものにすることだって...。
私の不安は結局は過剰な自信から来たものだったのだ。自分さえその気になれば何だってできる。そして、ふとしたはずみにその不安はささやかな欲望の前に簡単にひれ伏してしまったのだ。
ある日ついに私はKの前で歌ってしまった。そして、その歌はこれまでになく洗練されていて流麗なものだったに違いなかった。Kは疑うことなくその歌に酔った。そしてそのあと、私たちはお決まりの濃密な夜を過ごしたのである。
その日ずいぶん遅くに私が家に帰ると、彼女はまだ起きていて、消音ペダルを踏みながらピアノをぽろぽろと弾いていた。一瞬罪の意識を感じたが、何事もなかったかのように床に就こうとすると、彼女は言った。
「ねえ、久しぶりに歌ってくれない?」
「もう遅いじゃないか、近所迷惑だよ」
「少しだけでいいから、お願い。」
こんな風に彼女がねだるのは久しぶりだったから、むげに断わるわけにもいかず、私はついに歌うことにした。
最初は「仕事がなかなか終わらず...」といったふうに歌い始めた。自分でも少々言い訳じみているように感じられたが、すかさず彼女のピアノは私の歌を否定するかのごとく鋭い音の固まりで反応をする。いくつか歌い始めるたびに彼女は曲調を変えていき、私に続きを歌わせようとしないのだ。幾分困って、私はしばらく口を閉ざしてしまった。
それから彼女はゆっくり、そして静かに美しいメロディを弾き始めた。私にはそのメロディが何故かとても懐かしいもののように感じられた。次第に緊張していた心の壁が取り除かれていった。
静かに私は歌い始めた。彼女は私をリードするように、私の歌を引き出していく。静かに、そしてだんだん高なっていく。そして...そして...
そして、ああ、ついに私は、今日あったこと全てを、彼女の巧みな伴奏の前で歌ってしまったのであった!


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