指揮者の気持ちと歌い手の気持ち(00/10/1)


指揮者のことをつらつら考えるに、指揮者と歌い手の気持ちの違いというのも結構興味深いものがあると感じました。

まずは歌い手(団員)の気持ち:
歌い手はまず自分が今練習している曲をしっかり歌える、ということに最大の関心があるわけです。だから、楽譜どおりのピッチ、リズム、発音などを自分がしっかりクリアしていることをまず押さえたいのです。楽譜どおりきっちり歌えないというような不完全燃焼な状態では、団の演奏の出来がどうであれ自分の歌に不満が残ります(このあたりの真面目さは個人差も大きいですけど^^;)。
このうまく歌える、という基準は、一般的にはかなり即物的な要素が多いのです。要するに、ピッチが正しい、とか、指定された音量でちゃんと歌った、とかそういうもの。だから、そういうことを非常に気を使って演奏している人から見ると、それがキチンとできない他の歌い手が気になって仕方がないのです。「ソプラノのあの部分、いつもはしってるんだよなー」とか「テナーのあの音いつも下がってて気になる」などなど。
だからこそ、団員はそういう部分を指揮者に直して欲しい、と単純に考えます。練習の場では、指揮者よりも歌い手のほうが音楽に対して即物的な発想をしているものです。「すいません、この部分の出だしがどうしても合わないんで、もう一回やってもらえますか?」とか「このフレーズとこのフレーズのどちらのほうが音量が大きいんですか?」とか積極的に言ってくる団員もいると思います。あるいは、いつまでたっても自分がおかしいと思っている個所を全然指揮者が指摘しないとき、思わず指揮者の技量を疑ってしまったりします。
どうしても全体の中にはいって歌っていると自分を中心とした音像から抜けきれず、その中での細かな失敗に気を取られ、なかなか団全体が生み出している音楽を感じるのは難しいものです。

次に指揮者の気持ち:
もちろん、指揮者は必要な音楽的即物的な指示をしなければいけません。が、何年も指揮をしていると、それらが「できる/できない」の問題でなく確率論みたいな感覚に感じるようになり、出来ない部分を直すのがいわばもぐら叩き的な指導でしかないことに気が付くはずです。つまり「できる」確率を上げる根本的なレベルアップが必要だと理解するのです。
ところが一方で、練習中に自分が何気なく言った一言、ジョーク、しぐさ、一振りで団の音楽が結構変わることに気が付きます。そういった言葉とは、即物的な指示とは別の、もっと感覚的、比喩的、あるいは文学的でさえある指揮者独自の言葉の言いまわしで、本人にとっては「あ、この表現使える!」みたいな感じ。精神的に人を動かすようなそういった言葉。
指揮者にとって、すぐには直らないような音楽的な指示より、もっと簡単に変化する歌い手全体の緊張感、緊迫感を作り出すことこそ大事に感じてくるのです。
特に練習時間が必ずしも多くない一般団体では、こういった表現の引出しをたくさん持っている指揮者が団の気持ちを一つにしてくれるし、それらが結局よい演奏につながっていきます。まさに、こういった言語能力や人を惹きつけるものを持つ人材をこそカリスマと呼ぶのでしょうし、指揮者としての大きな魅力であることは疑うべくもありません。
しかし、こうした状態は指揮者がだんだん音楽の言葉で語らなくなり、指揮者が基本的に持たなければいけない棒のテクニックとか、ソルフェージュ能力とかが少々置き去りになってしまう危険性を孕みます。あるいは、歌の練習がなにか精神修養の場であるような空間に変貌してしまうかもしれません。
いずれにしろ、指揮者にも歌い手にもバランスのとれた発想が必要なのは確かです。



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