「雨ニモマケズ」考(00/8/27)


宮沢賢治といえば、やはり「雨ニモマケズ」が最も有名。
先週も言ったとおり、こういった風味の詩は私には宮沢賢治を代表するものとは思えないのですが、いかにも日本人的な好みとマッチしてしまったのか、一般に広く知れ渡っています。
この詩について私の買った詩集の解説に面白い話が書いてありました。昭和30年代の終わり頃、この詩の評価をめぐって、これを賢治の最高傑作と見る谷川徹三氏と、「ふと書きおとした過失のよう」な作品、もっともとるに足らぬ作品とする中村稔氏との間で論争があったのだそうです。さすがに最高傑作とも、もっともとるに足らぬ、とも言い過ぎの感じがしますが、この詩が何か異彩を放つ独特な味を持っているのは確かでしょう。

ところで、この詩を初めて読んだ時、皆さんはどんな感想を持ったでしょうか。初めてとなると、きっと小学校か中学校の頃であんまり覚えていないかもしれませんけど、もしそのとき、とても感動したというような感想を持ったのだとしたら、よほど老成しているんじゃないかと私は疑ってしまいます。私の思うに、一般の若い人が読んだら、「こんな聖人のような人がいるわけないじゃん!人の役に立つのは立派なことだと思うけど、それでデクノボーと呼ばれ誉められもしないなんて人生やってらんない。」と感じるんじゃないでしょうか。(私のほうがひねくれてる?)
だいたい、この詩はあまりに極端な自己卑下と滅私奉公で貫かれていて、しかもこういう道徳的な観念の押し付けが学校教育と一体してたりすると、ちょっと反抗心のある人なら思わず偽善的だ、なんて言いそうですよね。
そう言えば、井上陽水の曲に「ワカンナイ」という曲があります。ちょっと一番だけ詩を書いてみましょう。
 「雨にも風にも負けないでね 暑さや寒さに勝ちつづけて 一日すこしのパンとミルクだけで カヤブキ屋根まで届く 電波を受けながら暮らせるかい? (略) 君の言葉は誰にもワカンナイ 君の静かな願いもワカンナイ 望むかたちが決まればつまんない 君の時代が今ではワカンナイ・・・」
いやはや、見る人が見たら怒りそうな歌詞ですが、物事を裏側から覗き見するような陽水の感性は、この曲でも十二分に発揮されていて、私など初めて聴いたとき「いやあ、良く言った」と思わず喝采を上げたかったくらいです。

もちろん、私は未だにこの詩について偽善的だと思っているわけではありません。特に賢治の生涯や、この詩が書かれた状況を知ってしまった今になって、ようやくこの詩を鑑賞できる立場を得たような気持ちなのです。
もし、この詩が、文学の世界で大成して、その人が得られるべき賞賛を得てしまったあとで、しかも金銭的な問題もない状態で、書かれたとあれば、それこそ眉唾、偽善、鼻持ちならない雰囲気を感じてしまうでしょう。多分、普通の人は賢治の生い立ちまで一緒に知るわけではないので(いや学校の先生はちゃんと説明しているかもしれませんが)、そういった大文学者の臭いとセットでインプットされてしまうといらざる不信感を感じてしまうような気がします。
しかし、先週も言ったとおり賢治は生前全く評価されませんでしたし、そもそもこの詩は発表される当てもなく病床にて書かれ、賢治の死後に手帳に殴り書きしてあるのを見つけた、という代物なのです。ある意味、覗いてはいけないプライベートな独り言みたいなもんで、自分の理想と諦念がない交ぜになったわずかな瞬間の想いを形にしただけかもしれません。死を目の前にした病人の想いと考えると、もっともっと重たく切ない感じがしてこないでしょうか。
また、私が上で書いた「極端な自己卑下と滅私奉公」はむしろ、賢治だからこそ書けた皮肉屋としての一面を表しているように思えます。例えば「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」「野原の松の林の蔭の小さな萱葺きの小屋にいて」なんて、いくら当時とは言えその質素ぶりは極端過ぎるくらいです。(四合は多いかも)
こんな悲痛な想いの中にも冷徹な皮肉屋が住んでいる、そういった目で見ると私にはこんなシリアスな詩の中にも宮沢賢治という創作家の本質が見え隠れしている気がするのです。



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