宮沢賢治に凝る(00/8/20)


夏休みを利用して、二泊ほど東北地方を旅行してきました。
花巻にある宮沢賢治記念館にちょっと寄ってみよう、と思っていたのですが、行ってみたら展示品やいろいろな説明が質・量ともに充実していて、ちょっとどころか午前中まるまるその見学に費やしてしまいました。ついでに文庫で出ている宮沢賢治の詩の全集もゲットするなど、なかなか有意義な時間が過ごせたと思っています。
宮沢賢治というと超メジャーな作家ですが、その全体像となると一般にはなかなか知られていないと思いますので、せっかくですから記念館で購入したパンフレットを元に宮沢賢治について紹介してみましょう。
宮沢賢治の生没年は1896年(明治29年)〜1933年(昭和8年)、37年の生涯でした。今の感覚からすれば随分早逝だったと言わざるを得ません。短いながらその生涯の間、さまざまな職業、および活動をしました。盛岡高等農林学校を卒業した賢治は、自らが深く傾倒した法華経に父親を改宗させようとしたのですがうまくいかず、結局家出同然で東京の宗教団体で奉仕活動を始めます。しかし妹の病気の報を聞き結局帰郷し、その後花巻農学校で何年か教諭を務めることになります。1926年、賢治は教諭をやめ、農耕自炊の生活に入り、その一方羅須(らす)地人協会を設立。ここで、農事相談や肥料設計などに奔走し、自らも荒れた地を開墾するなど農業活動に従事します。しかし粗食と過労から健康を害し、これより闘病生活を始めることになります。病気の回復後、東北砕石工場の技師として肥料用炭酸石灰の普及と販売に従事しますが、また病気が悪化。結局2年あまりの闘病生活の後、死去するのです。
このようなアグレッシブな生き方が可能だったのは、当時という時代のせいだったのかどうかは私にはわかりません。それにしても、彼そのものがそういう活動的だった人間であったことは確かですし、一般から見ればかなり過激な生き方をした(家出、教師をやめ自活生活など)人であったと思います。

さて、上のように一途な生き方をしたと思われる賢治ですが、彼の興味は全く多方面に渡っていました。
一つはもちろん文学。学生時代より短歌を始め、詩、童話、俳句と様々な作品を残しています。それ以外での彼の興味は、結局のところ文学作品の中で結実していくことになるのですが、具体的に言うと、まず先ほども出てきた宗教(法華経)、それから科学(地質学、化学、天文、そしてアインシュタインの相対性理論への興味)、演劇(自ら脚本を書き農学校の生徒に上演させた)、音楽(チェロを練習していた、また多くのクラシック音楽をレコードで聴き、自らも簡単な曲を作曲)、そして絵画(いくつかの水彩画が残されている)、最後にエスペラント。もちろん、地学や化学に関しては職業上の問題でもあり、仕事の上で必要とされた知識ではあります。
この多面的な活動はルネサンス時代のレオナルド・ダ・ヴィンチを思い起こさせるほどです。もちろん、実際に芸術家としての賢治の作品は文芸作品が中心となるのですが、そういった多方面にわたる興味が、また文芸作品にフィードバックされ、独特の硬質な芸術作品を生む原動力にもなりました。

宮沢賢治の作品というとどうしても「雨ニモ負ケズ」とか「永訣の朝」といったような、非常にヒューマニックな部分が有名になることが多いのですが、私にはそれらがどうも本質的な宮沢賢治の魅力とは違うもののように感じます。実際には、宗教や科学に裏付けられた難解な言葉の数々に翻弄されている読者がたくさんいるでしょうし、それでもなお宮沢賢治を賞賛するために、そういった側面が強調されるように思うのです。
ある意味、賢治の作品は極めてシュールですし、多義的です。童話も教訓めいているわけでなく、どちらかというと神話的な寓話性を持っています。それは不思議な夢の世界、ファンタジーの世界なのです。賢治のおびただしい知識はそのファンタジー性を表現するために利用されているのであって、厳格に言葉の意味を追っても無意味であるような、そんな性格を持った作品ではないか、と私は思っています。厳格な倫理性よりは、もっと斜に構えた皮肉屋、といった風に見える作品もたくさんあるのです。
そういった空想の世界を旅する賢治はまた、いろいろな造語の天才でもあったように感じます。例えば、岩手県をエスペラント風にイーハトーヴといったり、自らの芸術世界を四次元芸術といったり、また自分の詩を心象スケッチと呼んだり、などなど。

宮沢賢治は生前は詩集といくつかの童話を出版しただけで、それらもあまり人々の目に触れずほとんど無名のままでした。多くの作品を残し、あくなき推敲を重ねている賢治ですから、自分の作品を世に出したい、文学家として認められたい、という気持ちは当然あったことでしょう。こういったロマンチストが認められる世ではなかったのか、花巻という地が日本の文壇と無縁であったのか、いろいろ考えるところはありますが、逆に死後彼はここまで自分の作品が世に広まると思っていたでしょうか。
あるいは、その孤高で唯一無二な芸術世界を貫き通すために、生前に大きく評価されなくて良かった、と考える意地悪な見方をしたらやはり賢治に怒られるでしょうか。



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