移動ドのススメ(00/8/5)


というわけで、先週の話題の続きでついにこの話題を書いてしまうのです。
合唱関係者でも良く「固定ド」対「移動ド」の議論がありますし、某パソ通の会議室で何度も話題になったことを思い出します。私は詳しくはないのですが、音楽教育の場でも一時期相当活発に論議されていたと聞きます。そういえば以前話題になった「絶対音感」という本の中でそのあたりの事情が書いてあります。
今、日本の音楽教育界では、義務教育では移動ドを教え、音大やヤマハ音楽教室など専門性の高い場では固定ドで教えられているというねじれを抱えています。合唱をやっている人の中でも、50代近い人は移動ド的に音楽を感じる人は多いのですが、それより下の世代ではむしろ固定ド派の人が多いのです。それは、固定ドで専門教育を受けた人がまた小中学校の音楽の先生になった結果、義務教育の移動ド教育がすでに形骸化しているためと考えられます。
そういうわけで現在においては「固定ド+絶対音感」という音楽の学習方法が主流を占め、結果的に移動ド派はかなりの少数というのが実態でありましょう。いずれにしろ、音感は頭の柔らかいうちにしか習得することができない、というのは誰もが認めるところで、その音の引き出し方の違いは結局、生涯変えることの出来ないほど決定的なものになってしまうのです。

それにしても、私の感覚では、絶対音感で全ての音を割り切ってしまうことに一抹の寂しさを感じてしまうのです。
もちろん自分に絶対音感がないことがその由来となっているのかもしれません。しかし、移動ドで調性を感じることの意義を考えれば、固定ドで失われることはあまりに多い、と私は思います。私が熱烈な移動ド信者になったのは、「移動ドのすすめ」(東川清一著)の影響が非常に大きく、これを大学時代に読んで以来私は一貫して移動ド論者となったのですが、この本には、先ほど言った移動ドで感じることのできる調性感、あるいはスケール感などが述べられており、結果的に近年高まりつつある純正ハーモニーの体得にも大きなメリットがあると考えられます。

さて、それでは移動ドの本質とは何なのでしょう?
私の思うには、一つのスケール内での個々の音の相互関係を認識することだと考えます。もちろんかなり漠然とした言い方ですが、ここで重要なのは、音と音との相互関係ということです。音楽というからには最低音符は2つ以上が必要で、二つの音符の関係があって初めてそこに音楽の起伏が生まれてくるわけです。絶対音感をベースとする固定ドは、一つの音符が何物にも影響されない絶対的な名前や価値を与えられますが、その発想がひいては音楽としてのうねりよりも個々の音の正確さだけを追求してしまうような、極小的な完璧主義を植え付けてしまう危惧を感じます。
例えば移動ドの場合、二つの音符が時間軸上に並べられ、その音程が半音で上行する場合、シ→ド、と捕らえることが一番自然です。最も小さな単位でも必ず音楽には緊張→弛緩(というか緊張の解除)という動きがあるわけで、機能和声的に言えば、半音の音程関係を見つけたときに前の音が導音としての機能を持つと考えるのが普通だからです。
移動ドではそうした半音関係にシ→ド、あるいはファ→ミを当てはめることによって、そのときのスケール感をイメージすることができます。これが最も基本的な移動ドの感じ方なのですが、もちろんもう少し複雑な状況になっても応用は可能です。ただ、あまりに杓子定規的にこれを当てはめようとすると移動ド自体が教条主義に陥ることになるので、そこはバランスが必要かもしれません。
そんなわけで、移動ドとは音の相互関係を見つける手段を提供する道具であり、音の絶対位置を植え付ける固定ドとは根本的な部分で発想が違います。最終的に音取りが出来たとしても、そのあとでその音楽の音関係をより理解できたと言えるのは、やはり移動ドで音を取った方ではないか、と私には思えるのです。



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