日本語の詩と曲の関係その3(00/7/23)


今回は作曲家の詩選びについてちょっと私が思っていることを書いてみたいと思います。
いわゆる現代詩と呼ばれるものは、現代音楽などという言葉と同様、既存の形式や一般的な鑑賞の態度をいかに裏切るかといったような観点で作られていることが多いように思います。もちろん、いろいろなタイプの詩人がいるわけですが、現在においてある程度メジャーな人は、かなり表現がどぎつく、言葉の使いまわしが刺激的な人の多いのは確かです。詩として鑑賞しようとするなら、こういった新しい表現に対して私は決して批判的ではないのですが、その詩に曲をつけるとなるとやはり考えてしまうことが多いのです。
こういった現代詩の鑑賞はきわめてパーソナルな鑑賞の仕方を要求します。つまり、詩人の表現がそのままその詩集を買った鑑賞者に直接訴える、という形を前提としているように思えるのです。例えば、あからさまな性表現、あるいは暴力的な表現などは、文字による刺激ではそれなりに受容できても、音声による刺激となるとより過激な感じがしてしまいますし、それが合唱という多数の人間によって表現されたなら過激というよりは、聞いていて恥ずかしい気分になってしまうことは想像に難くありません。
歌として人に聞かせる場合、一人で本を読むのとは違って、ホールで同時にたくさんの人と聞くことが前提となります。そうした場にふさわしい詩のありかたというのがもちろんあるはずだと思うのです。これはもちろん、詩としての格調の高さとか、道徳性とか、芸術性の高さとか、そういったことではなくて、あくまで表現の仕方として、ということです。

今の日本の詩に曲をつける際に足りないと思う点は、あくまで私個人の意見ですが、言葉のリズムと叙事性だと考えています。
言葉のリズムとは詩を読んだ時の軽やかさみたいなもので、この軽やかさは、もっともわかりやすい例でいえば、定型詩であるとか韻を踏むといったやりかたが一般かと思います。先ほどもいったように、詩があくまで活字のままで鑑賞されるような現代詩においては、どうしてもこういった言葉のリズムを犠牲にしていることが少なくありません。
詩というのは文芸であるのと同時に、語られる言葉、という要素も持っていると思います。単に文芸であるのなら、小説でも散文でも構わないのです。それが詩であるためには、やはりある程度の定型的な言葉の並び、あるいは韻を踏むといった詩ならではの表現方法が必要だと思います。そして、それが曲をつけられる詩となると、さらにその重要度が高まります。
立原道造は多分、合唱や歌曲などで最も人気のある詩人といえるでしょう。もちろん、立原道造は七五調で書かれている、といったような定型詩ではないのですが、ソネットといった形式の中で自分の表現を見つけようとしていますし、何しろ日本語の詩として最も洗練されたリズムを持っているのがその人気の背景だと思います。言葉のリズムという点では詩において、あまりに長い文章や、極度に論理性の高い言葉は嫌われます。従って、どんな言葉を選んで、どんな連結をさせるのか、そういったところが詩の評価の大きなポイントになると思うのです。そういう意味で立原道造の詩は、日本において唯一無二ともいえる存在であり、早逝だったためすでに死後50年が経って著作権が切れていることもあり、特に作曲家を目指す若手にとっては非常に取り上げられやすい存在となっています。
しかし残念ながら、現在において言葉のリズムを大事にする詩人、あるいは定型的な詩を書いている詩人というのはきわめて稀ではないかと思います。
もう一つ、叙事性に関してですが、ある人から日本には叙事詩というジャンルがきちんと確立されていない、ということを聞いたことがあります。文学にそれほど精通しているわけではない私も、それに対してはなるほど、と感じました。例えば西洋なら、すでにギリシアの時代にたくさんの英雄叙事詩がありますし、「失楽園」とか、そういった長編の叙事詩が思い出されます。しかし、残念ながら日本ではそういったジャンルに属するものを思い浮かべられません。「平家物語」なんて冒頭を思い浮かべると、もしかして叙事詩なのかな、とも思いますが、さてどうなんでしょう。
これは西洋において、詩が本来語るものであった、という事実を裏付ける一つの象徴かもしれません。つまり、詩とは個人的な感情を伝えるための機能よりも前に、まず多くの人の前で歌うように語りながら、一つの物語を吟ずるというスタイルがそもそもあったのではないかということなのです。
現代詩が音楽にのりにくい理由として、言葉の表現の問題がありましたが、これも結局は個人的な感情の吐露、つまり叙情の世界の究極の形を求めたからこそ、ではないかとも思えます。しかし、私が今詩に足りないと思うのは、書き手の感情よりも前に客観的な物語があり、そしてその物語には常に寓話性が求められるといったような要素です。もちろん、あまりな長編詩では曲をつけるのも大変ですが、数十行であってもそんな詩の書き方は可能だと思うのです。
もちろん、こういった詩にしか曲はつけない、といっているわけではありませんが、一つの理想として、こんな詩と出会えたらいいな、と期待しているのです。



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