日本語の詩と曲の関係(00/5/22)


ボーカル音楽の場合、詩とメロディがどのような関係になっているかが重要なことになってきます。
特に作曲の段階では、詩がそこから思いつくであろうメロディをかなり規定することが考えられます。詩が日本語の場合、実際どのようなことがことが起こるのか、またその要因を、即物的な観点からちょっと考察してみましょう。

まず一つ考えられるのは、日本語は他の言語に比べて、一単語の音節数が多いという点です。これに関しては一般論として納得していただけるでしょうか。他の言語といってもアルファベット系の言語しか知りませんが、たいていの単語は2,3音節で、4音節以上あると長い単語、というイメージがあります。もちろん、ドイツ語など長い名詞が出来やすい言語もありますが、たいていは複数単語の合成である場合でしょう。
それに比べると、日本語は一つの単語がたいていは3から5音節程度はあるように感じます。
これが日本語のメロディと外国語のメロディの違いを起こす大きな原因でありましょう。外国語のほうが単語に束縛される度合いが低く、より旋律が器楽的になります。日本語の場合、言語構造をかなり引きずるので、単語単位で旋律が島状になる可能性が高くなります。例えばこんな感じ。
「あなたは〜もう〜忘れたかしら〜」
こういうフィーリングって日本語を母国語としない人からしたら理解できるかなあ、と思ってしまうのです。
あるいは、言語構造をそのままリズムにしてしまい、変拍子が増えるパターンもありますね。「からたちの花」は日本語に美しいメロディをつけた素晴らしい例ではありますが、これも日本語の理解なくしてこの曲の気持良さを感じるのは難しいと思います。

もう一つ、外国語のほうが音節あたりの意味的な情報量が日本語よりも多い、という点があるでしょう。これは多分、母音、子音の区別が多いということと(日本語の場合、数が少ないのでなく区別が少ないというべきでしょう)、一音節が子音+母音+子音となることが出来、最後に子音が付け加える分だけ(しかも二つだってあり!)、意味の情報量が増えるのです。最後の子音が、日本人にとって洋物の曲を歌う大きな足枷になっているのは、誰もが感じるところでしょう。
それはともかく、これがどういう意味を持つかというと、外国語の曲のほうが一音符における意味的な重要度が増えるということなのです。
例えばこんな例はどうでしょう。
"Why she had to go, I don't know, She wouldn't say" (Yesterday)
"Why"一語で「なぜ」となるわけで、そのときの聞き手の曲に対する喚起度を一気に高めます。それにその後、たったの5音節で「どうして彼女は行ってしまったのか〜」という意味を提示できてしまいます。
ところが、例えば情報量の多い日本語の詩がある場合、それを処理しようと思うと16分音符が増えるなどして、歌う側にも一般的な歌唱力とは別のものが要求される可能性があります。一音符で "Why" という歌い方と、四音符で「どうして」では(しかも16分音符だったら)、歌い手の訴え方も相当変わって来るように思いませんか。

とここまで書いて、このネタからは
・日本語のアクセント、イントネーションによる束縛
・1番と2番での言葉の違いをどう処理している?
・詩が先、曲が先?
・日本語のメロディの美しさは外国人に伝わるか
・逆に日本語以外の言語の特徴と、その音楽への影響
など、話が発展しそうですが、とりあえず今回はこのへんで。


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