キャリアとノンキャリア(00/3/5)


なんだか、アホなニュースばかり報道される昨今です。最近はマスコミの目も厳しいのか、ある突発的に起きた事件、事故でそれを処理する機関のあまりのずさんさが毎日のニュースを賑やかしていますね。
例の新潟県警のウソ報告から端を発し、今では警察の人事の仕組みやら、国家公安委員会のありかた、なんてところまで話しは発展しています。そもそも、キャリアとノンキャリアと言われて、なんとなくいやーな感じがするのは私だけではないでしょう。多分、警察に関係ない人ばかりでなく、そこで働いている人だって何かおかしいよな、と思っているに違いないのですが、それでもそれが変えられずそのままになっているのが日本的システムの悲しいところです。
このキャリア、ノンキャリアの問題、まさに私が以前言った上下関係の問題に他ならない、と思います。
実際、叩き上げでトップまで上り詰めるというのは、本人の努力だけでなく、それを評価する人々まで様々な人にパワーが必要です。場合によっては仲間を傷つけることだってあるし、その評価が失敗に終わることもあるでしょう。そういう意味で組織に入る一番手前の段階で人のランクを決めてしまうことは、近視眼的には人事にさくコストを減らしていると言えます。しかし、そのように隣人を直接傷つけないように気を付けてしまうようなメンタリティが、結果的に組織の活性化を失わせてしまう、こういったことの悪循環に陥っているように思うのです。

そもそも組織に入る時の試験の成績で、それからのその組織でのランクが決められてしまう、なんていうのは何ともおかしな話です。その事実だけを見れば、組織の中でのその人の活躍は全く反映されていないわけですから。
同様なことが、大学に入ることだけを目的にしている日本的学歴社会に言えると思います。日本では大学に入るのはとても大変だけど、入ってしまえば勉強もせずに遊ぶことが大学生の特権なんて誰しもが思っている(私も人のことは全然言えません)。中学の頃からアメリカで過ごした同期の友人がいますが、彼曰く高校時代はバイトと遊びに明け暮れていたそうで、アメリカでは勉強したかったら大学でみっちりやる、という形が定着しています。だから大学でちゃんと勉強しないと卒業もさせてもらえません。彼と話をした時は、アメリカで高校にいって日本で大学にいったら最強パターンだな、なんて茶化していましたが、まさに大学と高校のあり方が全く逆転していますね。大学が学問の府であるなら、アメリカと日本、どちらがいいかは言わずもがなでしょう。

私たちの身の回りにあるささやかな特権階級のために、どれだけおかしな慣行が横行していることか、想像に余りあります。本当は、その組織の存在意義を常に忘れず、その機能が有効に働くためにはどのような仕組みでなければいけないのか、常に考えていく必要があります。この努力を怠ったなら、その組織はいずれは消えてなくなる運命にあるでしょう。



inserted by FC2 system