母の手術とパイプのけむり(99/1/31)


先週の木曜日、母が手術を受けました。
3年ほど前にもお腹を切って脾臓を取り出したのですが、今回は動脈瘤(どうみゃくりゅう)といって心臓近くの動脈が膨れ上がってしまう症状で、やはりお腹を切ってぶっとい動脈を切り取り、人工のものに変えるという結構大掛かりなものでした。この手術が出来る先生の都合がなかなかつかないとかで、結構待たされた上での手術でした。
手術のほうは無事終り、翌日には元気そうな母の顔を見ることが出来ました。まずは安心です。もう数週間は入院の日々が続くでしょうが、順調に回復するものと期待しています。それにしても、身内の手術というのはそうなかなかないものですから、親族用の待合室に入ったりとか、白衣を着て集中治療室に入るなど滅多に出来ない体験をしました。
この日は朝から病院に行って、しばらく待合室や母のそばにいましたが、午後3時からようやく手術が始まりました。手術は約4時間かかったので、結局病院には9時間近くいたわけです。かなり時間を持て余していた私は、病院の待合室においてあった「パイプのけむり」という文庫本をずっと読みつづけていました。気を紛らわすのにもちょうどよいくらいの内容で、結局この日のうちにこの本を読み終えてしまいました。

パイプのけむりは知っている人も多いと思いますが、作曲家團伊玖磨氏によるエッセイです。
私が手にした文庫本には、このエッセイを書き始めたころのものが集められていました。團氏はなかなか筆も立つようで、言葉の使い方もうまいし、エッセイの落とし所などもよく心得ていて文才があるんだなあ、と感心しましたが、問題なのはその中身。よくよく読むとかなり過激なことを書いてます。自分が気に入らない世の中の風潮には容赦なく批判を浴びせます。後書きにもありましたが、自分が批判した医学生のデモ行進の主催者から抗議の手紙をもらったりとか、エッセイに絡んでいろいろトラブルもあった模様。
なかなか笑えるのは、このエッセイが書かれたのは1965年ころで、つまり私が生まれる前のことですが、今から見ると隔世の感がある事実がいろいろ書かれているということです。新幹線が出来て東京大阪間が6時間で結ばれるようになったことに関して「そんなにあくせく移動して何になる。情緒のかけらもない」とか(6時間というのが泣ける)、「電話がダイヤルで簡単にかけれるようになったが、前のように交換手と会話するのが面白くてよかったのに」などという文面を見ると、時代の差を感じついつい微笑ましくなってしまいます。
この時点で團氏は40歳くらいだったはずですが、それにしては言うことが年寄りくさすぎます。何かあると最近の若者は、みたいになる。その若者も今やいい大人なんですがね。テレビを見ていて、「こんなものばかり見ていると、日本全国総白痴化になる」なんていうのは笑える表現だけど、今でも通用しそう。ただし、今やテレビを見ない人なんていないと思いますが。
全体的に感じるのは、團氏は相当な上流階級の出であること。人が持っていないようなペットを買おうと腐心したり、何か便利になるためのものだったらすぐに取り揃えたりするあたり、金持ちの感覚だよなあって感じで、当時の一般的な庶民から見れば、随分鼻持ちならない文章だったのではないでしょうか。
もっとも、戦前の混乱期に実業家であった自分の祖父が暗殺されたことなどは、庶民の私たちには想像もできない心の傷ですし、音楽家になったおかげで海外に留学し、語学も相当堪能であること(語学ネタも多い)など、素直にすごいなあと思う部分もありましたが。


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