超コワイ臨界事故(99/10/3)


なんだか、世の中激しい事件が多いですね。
東海村の臨界事故のおかげで一日前の下関の通り魔事件も一気に消え失せてしまいました。
しかも、この事故、さまざまな意味で今の社会状況を反映していて、この事故の持つ意味が、ひとつひとつ今の私たちの社会の問題を浮き彫りにしているように思えます。
この事故に対して多くの人が非難の声をあげていると思われますが、多分そのほとんどはJCO(なんだかJOCみたい)のずさんな管理体制に向けられたものでしょう。こんな事故がなければ一般には聞いたこともないような名前の会社です。こんなレベルの作業まで民間でやっていたなんて初めて知りました。
こういった記事には必ず「信じられない」とか「ずさん」とか書かれますが、私にしてみれば十分想像できる事態です。自分の身の回りを考えればそのくらいのずさんな管理など山ほどありますし、原子力発電といえども同じように人のやっていることです。この事故を機会に多分たくさんのマニュアルや通達が関連するところに出されるでしょうが、多分それは本質的な解決とはならないでしょう。

もちろん、私はJCOの肩を持つつもりもないし、この事故について仕方がない、と言っているわけではありません。
まず私が言いたいのは、ここで管理しているものは極めて危ない物質であるということから、一般的な発想での管理業務では対応しきれないのではないか、ということです。
具体的に言うなら、危険性を継続性を持ってチェックする機関を持つ必要があると思います。実際の作業者へのマニュアルをただ増やすだけではいけません。「このとおりやってね」なんて300ページもあるマニュアルを渡されて、うまくいかなかったら作業者のせいにされたらたまりません。それはマニュアルを渡す人が悪い。このような方法では、現場の仕事量だけが異常に膨れ上がり、結局面倒くさくなって「裏マニュアル」を作るという悪循環に陥るだけです。もし、その作業が極度に危険なものであるならば、直接の作業者だけでなく、絶えずその作業をチェックする第三者が必要だと私は感じるのです。場合によっては、その第三者は別の会社であったほうがいいかもしれません。それは、作業者を信頼していないとかそういう問題ではないのです。その作業が、どれだけ危険なことを扱っているかによって、仕事の仕方を全く変えなければいけないはずなのです。

もう一つは、実際に起きてしまった事故に対してどのように対処するか、という危機管理ができていないというのを感じます。
実際に起きうる非常事態を予想して、それに対する動作をまとめておくということが出来ないのです。なぜなら、非常事態というのは一般に「あってはならない」ことです。その「あってはならない」ことを予想して、もし起きてしまったらどうするか、ということを考えるわけで、それが作成中に「あってはならない」が「あるはずがない」に変わり、予想の精度が落ちてしまうことは良くあることです。
ちょっと矛先が変りますが、こんな会話が会社でもよくあるのではないでしょうか。
「期日までに間に合わなかったらどうしますか?」
「やる前からそんなことを言うな。期日までに間に合うように仕事をするんだ。」
最初の疑問文での状況は、ある種の「あってはならない」ことであり、もしそうなったときの行動について疑問を発しているわけです。
ところが、それに対する答えは単なる仕事に対する精神論であり、実際の部下の仕事の仕方について具体的に何も示しているわけではありません。
「あってはならない」ことが組織にとって大きなダメージを与える時、それについて考えたくないというのが一般的な人の発想です。しかし、その発想のまま突き進むと事故を隠したり、虚偽の報告をするような方向に走ってしまいます。そのためには、組織にとって「あってはならない」ことであっても正直に対峙する勇気が必要なのだと思います。



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