「幼年連祷」の一節に想う(04/11/13)


大学時代に歌ったことのある「幼年連祷(曲:新実徳英、詩:吉原幸子)」の一節をふと口ずさむことがあります。

「わらはないでいいひとが わらふのだった
死なないでいいけものが 死ぬのだった」

自分自身はこの言葉に思わず共振し、歌っていても妙に気持ちがこもったことを覚えています。
こういった言葉を聞いたとき、最初の一文で、例えば私腹を肥やす政治家、経済人だとか、人々を混乱に陥れるテロリストとか、暗躍するヤクザとか、その他、人を貶めて高笑いをしているような人々を想像し、それに対して、次の文で繊細で傷つきやすい人々を想像するかもしれません。そういった社会の矛盾をこの言葉に託して想いを込めるというのもあるでしょう。
さらに言うなら、こういった想いはどこまでも自分個人に向かい、繊細で傷つきやすい「けもの」を自分自身に投影し、自分はこの社会で生きていくにはナイーブ過ぎるんだなどとナルシスティックに夢想してしまうといったこともあるはずです。そのとき、「笑わないでいい人」は自分の身近にいるリアルな対象を想像しているかもしれません。
そのような思いを代弁してくれる言葉として、この詩の一節はとても印象的に響きます。

ところが、この言葉で表される気持ちってとてつもなく傲慢なんじゃないかと、ふと思ったのです。
自分の人生においては自分は自分でしかないわけで、常に自分は自分を正当化しようとし、自分の考えの範囲内において正義であろうとします。しかし、相手にも同様に相手の中の正義があるはずです。そのとき自分以外の考えを、相手の正義として考慮できないのは自分の怠慢なのではないでしょうか。世の中のあらゆる衝突、紛争は恐らく常に正義と正義の戦いなのです。そういった悲劇を繰り返さないためにも、私たちには相手の正義を少しでも理解しようとする想像力がもっともっと必要なのではないでしょうか。
だからこそ上の一節が、内向的ではあるにせよ、自分の正義の殻に閉じこもり、特定の人に対して「笑わないでいい人」と言い切ることに危うさを、そして傲慢な気持ちを感じるような気がしてきたのです。
もちろん、これはこの詩の、あるいはこの詩人の価値について論じているわけではありません。この言葉に共振してしまう心情について言っているのです。自分を憐れむところで思考停止することは、やはり傲慢さの一部なのではないかと。

こういったシリアスな話題は不得手ですが^^;、傷つく自分ばかりにフォーカスするあまり、傷つけている自分を忘れてはいけない、という自戒の念もあるのかもしれません。年齢を重ねると発言権も増してくるし、人を動かすことも多くなります。しかし、周りにいる人々が全て、その人の正義に基づいて行動しているのだということを常に想像することは必要なことだなあ、としみじみ感じています。



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