語られる言葉(04/9/4)


今週のニュースで何回か見たのは、アメリカの共和党大会の様子。
政治の話をしたいわけではないけど、私にとってはとても興味深いのです。何故かというと、アメリカと日本のあまりの国民性の違いに驚くからです。
だいたい、日本で党大会と言えば、国会議員や地方議員が集まって、ダラダラと長い話をして、最後に「ガンバロー!」とか言って終わるのが関の山。ところが、ニュースの共和党大会を見ると、議員だけじゃない市井の人が集まり、演説者がうまいことを言う度に歓声が上がり、話し手も聴き手もものすごいハイテンションです。しかも、全員で「もう4年!」とか言って叫ぶんですよ。

そもそも、事実上二大政党のアメリカでは、国民は民主党か共和党しか選ぶことができないわけです。ところが、国民の大多数はそのどちらかの陣営にしっかりカテゴライズされます。大半が無党派層である日本とは違い、たった二つの政党にほとんどの国民の支持は分かれるのです。
話によれば、各政党の支持層はそれぞれコミュニティがあり、例えば住んでいる場所だけで支持政党は分かるほどだそうです。つまり、同じ政党支持層は同じような場所で同じような仕事をしているわけです。共和党支持者が住む町に民主党支持者が住もうとしようものなら激しいバッシングに合い、結局引っ越さざるを得なくなるそうです。
アメリカでは個人の意志がはっきりしていて自己責任でモノを考えることができる成熟した人々が多い、と一般には言われています。確かに、自己主張は激しいが、その主張は必ずしも個人一人の意志で形成されたものではありません。その人が住んでいる場所、親の環境、職場によって、彼らはきっちりとカテゴライズされ、その枠内で決められた政党を支持しているように思えます。
そういう意味では、信頼がおける政党がない、という日本人のほうがよほど個人単位で支持政党を考えているような気さえしてしまいます。

アメリカにおいて、支持政党というのが宗教のようだと考えるのはなかなか言い得て妙です。例えば、カトリックとプロテスタントのような。
国民は、宗教を選択しなければいけません。そうしなければ、様々なコミュニティからの特典が得られないからです。両陣営ともその勢力が拮抗しており、だからこそ勢力争いは熾烈を極めます。現在の政権に不満があれば、大規模なデモも起こりますし、逆に支持者による集会もそれに対抗して行われます。日本人が、エセ正義感でデモ行進するのとは訳が違います。彼らは身も心も宗教に染まっており、その閉ざされた正義感の中で極端に熱くなっているのです。それは日本人からしてみれば、極めて排他的な考え方でしょう。

宗教は人々を熱狂させます。
彼らは自分たちが熱くなるために、優れた演説を好みます。人々を高揚させるような演説が出来る人がヒーローになるのです。そこでは、冷静で知的な言葉はあまり必要ありません。敵を攻撃し、単純な言葉で自分たちを鼓舞する、そういった言葉を短く、鋭く、そしてうまい比喩で話せる人間が優れたリーダーだと見なされるのです。
こういった文化で育った言語というのは、当然ながら強弱アクセントが激しいものになるのかなと思えます。日本語では、どんなにかっこ良く演説しようと思っても、ああいった熱狂を生む感じが想像できません。日本語の演説というと、ダラダラ話して、肯定か否定か文末の意味が不明確になり、意味のないお世辞に溢れた、アメリカの演説と対極にあるような感じが容易にイメージできます。

自己主張しやすく、人々に影響を与える、そういう言葉、「語られる」という要素が、圧倒的に日本語に足りないような気がしています。それは恐らく、日本の文化にそのように言葉で人を扇動するというような必然性がなかったからなのかもしれません。また、日本人はそういった行動を冷めた目で見る傾向があります。校長先生の話とか、社長の話で歓声が上がって、人々が盛り上がるなんて日本では想像も出来ないでしょう!
その中でも小泉首相は、日本語でアメリカナイズされた演説が出来る稀有な政治家に思えます。就任当初よりは勢いがなくなりましたけど。



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