多作か?寡作か?(99/7/19)


作曲家などの創作家を評するとき、その人が多作だったか寡作だったかは多少は話題になるかと思います。
もちろん、多作であろうと寡作であろうと良い作品が書けることが一番いいことではありますが、一般的には作品の数が少なくても、一生懸命推敲して、苦しみぬいて、あるいは十分に時間をかけて作品を作る人の方が尊敬に値する、という考えを持っている人が多いのではないでしょうか。芸術を高尚なものとして捉える人ほど、そういうふうに考えるように思います。
そういう人にとっては多作型というと粗製濫造のイメージがあり、いい作品があってもそれの何倍ものつまらない作品があるというふうに感じるかもしれません。また、それらはモーツァルトなどを代表とする一種の天才の仕事であって、芸術を探求する深い思索とは無縁のものだと思う人もいることでしょう。(ほんまかいな^^;)

単刀直入に言ってしまいますが、どちらかというと私は多作型のほうが好きです。
それは作品そのものが好き、ということと別次元の話で、私にとっての創作家の一つの理想的なありかたなのです。
あるいは、どちらかというと、いい作品を作るために苦悩し、陰鬱になり、ベートーヴェンの肖像画のように髪の毛を振り乱しながら、身を削る思いで作品を綴っていく、というイメージが、逆に寡作型の悪いイメージとなっているのかもしれません。率直に言ってしまえば、良い作品を作るのに努力を要すれば要するほど、その人には才能がない、とさえ考えています。
むろん、作品の善し悪しには、創作家の才能で決まる部分と、思索や哲学性で決まる要素があるでしょう。しかし、目に見える主義主張は大衆的になりやすく、私には最終的に素晴らしい芸術作品は結局は天才の仕事によるものではないかと思っているのです。この世界はやはり努力礼賛だけではどうしようもないのです。

とここまで書いて、多作か?寡作か?の問いが、努力か?才能か?みたいになってきてしまったことに気付きました。いや、何にしても努力は大切なのですが、気がつくと芸術の世界が日本的スポ根主義になりかねないのがなんとなくいやなんですよね。
あと現代では、芸術世界と職人世界が分かれてしまい、湯水のごとく才能を垂れ流すような場所がなくなってきているのかもしれません。実際、テレビ音楽やコマーシャル音楽では、とても作曲家がその才能を十分に発揮しているとは思えませんから...


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