さらに構造について(04/5/22)


「楽譜を読む」でも書いたように、芸術作品の様々な要素の組み立て方として、マクロ構造と、ミクロ構造という二つの視点があると思います。

ミクロ構造とは、時間単位としては非常に小さく、その作品の最小構成単位をどのように配置するか、そしてそのための技術、というようなものを表しています。文学で言えば、文法的な問題、語彙の問題、文章のスタイルの問題なんかでしょうし、映画で言えば、カット内のアングルや照明効果や色調とかでしょうし(もちろん専門家の意見は違うかもしれません)、音楽で言えば、和声法であり対位法であり、管弦楽法といった技術的側面を指します。

その一方、マクロ構造とは、芸術作品全体の構成のことを意味します。ある作品を構成するいくつかのパーツをどのように配置し、またそれぞれのパーツにどのように関連性を持たせるか、なおかつそのような工夫をすることによって、最終的に作品をどのような方向性に仕上げていきたいのか、というような考え方です。
ミクロ構造が、それぞれの芸術ジャンルにおける個別な技術的側面にフォーカスするのに対して、マクロ構造とは、様々な芸術に共通のもっと一般的な芸術的センスのようなものを扱うというイメージがあります。
私たちは、様々な芸術において、その道の専門家になるにつれ、その道の技術的な鍛錬を重ね、それぞれの技術に長けていくわけです。従って、技術的で専門的な話題を扱おうとすればするほど、その話はミクロ構造に向かっていくように私は感じます。また同様に、技術力や専門性を誇示したいアーティストほど、ミクロ構造に彼の執念を注いでいきます。例えば、なぜロマン派の音楽に比べると現代音楽のほうが曲の時間が短いのか考えてみれば、こういった考察はそれほど間違っていないようにも思えます。

しかし、誰もが感じているように、どのジャンルにおいても芸術性の高さを持っているアーティストは、芸術一般におけるセンスそのものを持っており、そのようなアーティストは無意味に難解なミクロ構造指向は持っていないものです。
そして、そういう才能を持つ人ほど、マクロ構造の方面に多大な才能を発揮しているように感じます。
先週の談話はそういった一つの象徴として、敢えて超有名な「新世界より」について書いてみました。この曲について書くこと自体、いささかルール違反な気もしますが、メロディの甘さや和声的な凡庸さをあげつらって技術レベルが低いというような指摘に対して、なぜこの名曲が、多くの人が愛するに足るほどの名声を勝ち得たのか、それについて反論してみたいという気持ちがあったわけです。

残念ながら、音楽の世界においては、マクロ構造を楽しむようなそういう作品は最近は作られなくなりました(というか一般には知られていません)。ポップスの影響などもあり、一曲の長さは短くなり、芸術領域の創作においてはミクロ構造に注力するほうが大多数のように思います。
その一方、小説に関しては、エンターテインメント性の高いものがたくさん現れ、昨今は非常にレベルの高い小説が次々出ています。映画の世界でも、邦画はいまいちですけど、多くの人が興味を持っており、そのような芸術性の高さを楽しむことができる貴重なジャンルの一つになっていると思います。

それぞれの時代において、最も大衆に愛された芸術ジャンルに才能を持ったアーティストは集まります。
そして、それぞれの芸術を読み解くために、マクロ構造は、芸術に対するアーティストの根源的なモチベーションに触れる大切な鍵なのかもしれない、と私には思えます。
だからこそ、芸術に触れる多くの人にも、細かい技術的な側面だけでなく、作品が持つ一般的な芸術性にもっともっと気が付いて欲しいし、そういうことに言及していって欲しいと感じます。



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