楽譜を読む その4 -曲のマクロ構造-(04/1/10)


以前も言いましたが、マクロ構造とは、例えば音楽の形式のように、一つの楽曲がどのような部分を持っていて、どのように連なっているのかを表すような言葉だと思ってください。
しかし、なぜ音楽には形式なんてものがあるのでしょう。
どんな創作物においても、ある程度の規模になってくると構造性が必要になってきます。ここでいう構造性とは、全体を構成する各パーツが明瞭に分かれているということであり、また各パーツが何らかの類似性を持つことで全体の統一を図るといったものです。
構造といって、最もわかりやすい例でいうならやはり建築物でしょうか。いろいろな切り口はありますが、例えばどんな家でも、家の中が全て一つの空間になっているということはないでしょう。一つの家には部屋がいくつかあり、台所、トイレ、お風呂、玄関があります。そのように機能ごとに空間が分割されているから、家として私たちが便利に使えるわけです。

音楽の形式も同様に、いろいろなパーツが一つにまとまって一つの楽曲を構成していて、例えば3部形式とかロンド形式というのは、そのパーツの構成方法をカタログ化したものだということができるでしょう。音楽の形式が、先ほど言った建築物と決定的に違うことがあります。それは、音楽の形式は空間ではなく、時間軸上に配置されているものであり、人間がそれを把握するためには「記憶」というメカニズムが必ず必要になってくるという点だと私は思います。
例えば3部形式の曲があって、ABA’というような構成だったとします。この音楽を聞いた人は、2回目にA’が現れたときに、最初に演奏されたAが記憶していれば、また主題が現れたということを理解できます。記憶していなければ、音楽の構造性に気付かぬまま、まるで一つの部屋しかない家に住むがごとく、その音楽に違和感を感じるに違いありません。
私が音楽のマクロ構造の理解と演奏への反映として言いたいのはまさにこのことです。演奏家は、まず音楽の構造を明確に示す必要があります。そうでなければ聴衆は、その音楽を聞くことがただの苦痛になってしまうからです。そのためには、曲中の各パーツの役割を認識し、そのパーツの役割を十分強調した音楽作りをすることが必要になりますし、同じ主題を持ったパーツは同じように演奏することによって「同じである」ということを示すことが必要です。

私が最近ちょっと疑問に思っているのは、例えば同じ主題がもう一度現れるような再現部において、多くの演奏家が、前回現れたときと違うように演奏すべきだと思っていることです。センスのない芸術家ほど、一つのものにたくさんのコトを詰め込みたがります。素人とプロの差はだいたいこういうところに現れると私は思います。まして、演奏家は(アマチュアほど)同じ曲を何度も練習するわけで、余計同じ主題を、勝手にいろんな意味を込めて変化させて演奏したくなるのかもしれません。
だからこそ、私は敢えていいたいのですが、上記のように聴衆の立場に立って考えるなら、同じ主題はなるべく同じように演奏するのがまず基本的な考え方としてあるべきだと思うのです。
もちろん、実際には必ずしもそうでない例はたくさんあるでしょう。例えば、ベートーヴェンの交響曲などもう聴衆の多くの人が曲を知っているような場合、敢えて新しい解釈を施すことによって演奏のオリジナリティを表現したいという場合などです。
しかし、合唱の場合、自前の演奏会に来てくれる客がそれほど合唱のことを知っているとも思えないし、私自身だって世の中知らない曲ばかりです。いろいろ過剰な意味を込めたがる貧乏根性より、構造を示した明快な演奏の方が、聴衆のレベルを問わずいい演奏として評価されると私は思います。



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