楽譜を読む その2 -音価篇-(03/12/6)


練習の場であんまり細かいことを言うと嫌われそうで心配なんですが^^;、最近楽譜上の音価の取り扱いが気になることが多いのです。音価とは音の長さのこと。ある音符が、四分音符であるか、八分音符であるか、とかそういうことです。

歌う側は、恐らく無意識のうちにこの音価の情報をかなり無視して歌っているフシがあります。特に、フレーズの最後の音符や、タイでつながれた音符など。これは、「楽譜を読む」という話とは別に、フレーズをレガートで歌うという意識の欠如による場合も多いのですが、しかしやはり音価に込められた意味に気づかないという原因も結構あるのではないでしょうか。

もちろん、楽譜を丹念に読めば、演奏上守るべき音価、あまり守らなくても良い音価、というのがあると思います。あるいは、指揮者の解釈によっては意見も分かれるでしょう。これに関しては、ある程度指揮者は見解を示す必要があります。
わかりやすい例で言えば、曲やフレーズの最後の全音符(あるいは長めの音符)にフェルマータが付いていなくても、フェルマータとして扱う(つまり棒を止める)ということは良くあることです。こういうことを一通り説明する几帳面さというのは指揮者にある程度必要なことと感じます。

作曲家によっても、フレーズの終わりの音価の処理については、その書法は違います。
非常に細かくフレーズの終わりを制御したいと考える作曲家もいますし、逆に淡白に処理する作曲家もいます。一見、細かく制御しようとする態度の方が優れていると思いがちですが、これは必ずしもそうとは言えません。作曲家がいくら細かく書いても、その心が伝わらなければ、意味のない楽譜の複雑さになります。むしろ、フレーズをどう処理するかは演奏家の役割だと割り切って、淡白に書いてしまったほうが、よい効果を上げることもあるでしょう。
割と細かく制御したがる作曲家としては、例えばプーランクを挙げることが出来ます。これはコラージュ的にフレーズをつなぎ合わせるプーランクの作風による部分が大きいわけですが、例えば、各フレーズの終わりが、八分音符でタイにつながれたり、16分音符でタイにつながれていたりします。
ここも、楽譜に書かれているからといって、この音価どおりにきちんと歌おうとするような努力をするべきではなく、このように音符を書いた「プーランクの心」を汲み取って演奏する、ということが大事なのは言うまでもありません。
フレーズの終わりの音が延ばされ、小さな音価の音符とタイで繋がっているとき、私たちはどう歌うべきでしょうか。私の思うに、フレーズ間の隙間や空間を取ることを意図している場合もありますし、また別の意味として延ばしていた音を歌い切る際のスピード感みたいなものが表現されていることもあると感じます。例えば、タイでつながれた音符が16分音符ならかなり鋭い感じで音を切ったほうがいいように感じるのです。こう考えると、音価は音程と並んで非常に明確な物理的情報のように見えて、場合によっては情緒的な情報を表すこともあるのです。

上の話は実際かなり細かい話で、そんなレベル以前に、延ばすべき音を平気で切って歌っている人たちがいますし、楽譜に書かれた音価よりも長く歌ってしまう人たちがいます(←結構、私がいやなパターン)。こういう無神経さが演奏全体の甘さにつながると私は思うのですが、なぜか合唱ではそういうことが比較的許されやすい雰囲気がどうもあって、几帳面な私としては^^;、どうにも気になって仕方がありません。


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