楽譜を読む(03/11/30)


ある曲を演奏する際に、楽譜を十分読み込んで、その演奏に反映させることは、そのほとんどの責任が指揮者にあるわけです。最近は、自分にとっての演奏の良し悪しがこういう部分に大きく左右されていると感じるようになりました。だいたい、そういう知的なアプローチが出来る団体は、ソルフェージュもきちんとしているし、発声も悪くない場合がほとんどだったりするわけです。
ちょっと抽象的な話になってしまいそうですが、指揮者(演奏者)がどのように楽譜を読むべきか、私自身が思うところを書いてみたいと思います。

まず私が思うのは楽譜を読むときの根本的な態度の問題。
どうも一般に、そこに書いてある記号を絶対的なものとして、記号のまま受け取ってしまうことが結構多いように感じます。楽譜を読む、ということは、文字通りそこに記述されている記号を認識するということだけではないはずです。そこにその記号を書いた、作曲家の気持ちを推し量ることが絶対的に重要です。
以前も、テヌートスラーについてちょっと書きましたが、こういう細かいことに無頓着な人も多いのではないでしょうか。例えば、合唱練習で、「ここはスラーが書いてあるから滑らかに歌いましょう」などと指示するのは、結構はずしてる場合が多いです。その作曲家がどのようなルールを持ってスラーを楽譜に書き込んでいるのか、それを踏まえた上で楽譜を読まないとへんてこな指示を出してしまうことになりかねません。
テヌートなどのアーティキュレーション情報も、作曲家によっていろいろ感覚が異なることも多いものです。教科書にあるような四角四面な定義で解釈するのが常に正しいとは限りません。曲全体を読んで、作曲家のアーティキュレーション指示に関する「気持ち」を理解しなければいけないでしょうし、場合によってはその作曲家の他の曲まで見渡すことが必要かもしれません。
記号を即物的に解釈してしまうと、作曲家がそこに込めた気持ちが、伝言ゲームのように少しずつスポイルされていきます。アクセントなどもありがちなのは、ただ音を叩きつけるだけの乱暴な歌い方です。これは、その音符にアクセントが付いている、ということに対してその記号以上の意味を読み取ろうとしないことから起きるわけです。
声楽曲のアーティキュレーション指示に関しては、音楽上からの要請か、テキストからの要請か、その度合いをしっかり把握することが必要ですし、そこに込められた作曲家の気持ちを知れば、ちょうど適正の表現の仕方というのがわかってくるというものです。
各記号の楽典的な意味なら誰でもわかります。しかし、演奏に反映する際は必ず作曲家の気持ちを理解する作業が必要です。そうでないと恐らく作曲家が意図した効果とはまったく別のことをやってしまうことだってあり得るのです。

しかし、作曲家の気持ちを理解する、というのはどういうことなのでしょう。
例えばたまたま作曲家が近くにいたり、メールアドレスを公開していれば、直接聞くことも可能ですが、私の思うにそれでは正しい答えを得ることは出来ないと思います。例えば上のようなアーティキュレーションの話など、あまりに細かすぎます。人によってはまともに答えてくれないでしょう。あるいは詳細に語りすぎて、きりがなかったりするかもしれません^^;。
作曲家の気持ちを理解する、というのは、あくまで演奏者自身が行う領域の問題です。少なくとも私はそれが本来の姿であると思っています。また、楽譜上の細かい指示などは、作曲家とて無意識にやっていることは非常に多いのです。無意識なもの、手癖みたいなもの、そういうことを含めて意識の俎上に上げなければいけないのが演奏家です。
「意味」を理解するというと、どうも不必要に深い解釈をしたがる人がいますが、それも十分注意しなくてはいけません。楽譜を読んで解釈するということは、裏の裏を読むというような推理をするような態度とは違い、もっと自明で普遍的な結論が導かれるはずのものです。そう考えると、実は作曲家の気持ちを理解するというのはあまり正しくない言い方です。より正確に言うなら、普遍的な音楽の在り方を、その作曲家がどう捉えて、その楽譜に反映したかを理解する、という感じでしょうか。



inserted by FC2 system