デジタルコンテンツのゆくえ その2(03/11/8)


その1はこちらです。全てのデジタルコンテンツがタダになることが本当に可能なのか、またまた考えてしまうのです。
タダというと、今商売している人の収入が無くなってしまうというところから、どうしても話が始まってしまいますが、ここは視点を変えて、コンテンツを楽しむ側の行動を想像してみたいのです。

タダというと人はどう考えるでしょう。
話は変わりますが、例えば、民主党は高速道路をタダにする、と言っています。しかし私は、今まで考えてもみなかったので、タダになった高速道路をなかなかイメージすることができません。もちろん、一般的に車で遠出をする場合は、高速道路しか選択肢がないので、交通費が減る分利用する側は喜ぶべき話です。高速代惜しさに無理して下を走っていた人は、喜んで高速を使うことになるでしょう。しかし、結果的に高速が運送関係のトラックだらけになって、運転の快適さがかなり減ったら私たちはどう行動するでしょう。また、あちらこちらに道路の不備が発見されたとき、「やっぱりタダになると管理が甘くなるよねー」なんて思わず言ってしまいそうです。そう考えると、恐らく、今の常識とは違う感覚を高速道路に持つようになるはずです。もちろん、まだなっていないので、全ては想像の範囲でしかないのですけど・・・

私たちは、本も、CDも、DVDも、お金を払って買うということに慣れすぎてしまっています。単純に考えると、それらがタダになると、いくらでも好きなものをダウンロードし放題で嬉しいと思うかもしれません。しかし、それは今まで経済的対価があったからこその価値観であって、元々タダであるものだとそのイメージは少なからず変わってきます。例えば、道端の石ころは誰でも拾うことが出来ますが、その石ころに価値を見出せる人は地質学者か、考古学者のようなわずかな人でしかないでしょう。新聞も毎月購読料を払っているから読まなきゃ損だと実は思っていて、毎日Webでタダで日々のニュースを見れるようになると、逆にその日のWebのニュースをまんべんなく読むということが無くなってくると思うのです。
こういったコンテンツにお金を払うということに、まだ所有の感覚を持っている人は多いと思います。しかし、自分は良いもの(高価なもの)を持っているという満足感がデジタルコンテンツに適用されなくなったとき、恐らく今まで以上にそのコンテンツそのものの価値、コンテンツが自分に与えてくれた精神的満足感に気付くことになるような気がするのです。

人はお金を払うからこそ慎重に考えるはずですし、だからこそ、自分が本当に良いものを選ぼうとするという考えはもちろん正しいと思います。しかし、その金額が手の届く範囲になってくると、みんなの動向や、流行り廃りに影響されやすくなってきますし、ある意味宣伝側の思惑で動かすことも可能になるでしょう。
しかし、さらにこれがタダになったとき、人はどう感じるでしょう。例えば、ある場所に行くのにどの道を通ったらよいかとか、目の前にあるご馳走をどの皿から手を付けていったらよいか、とかほとんど他人から見ればどうでも良いような個人のこだわりの範疇の領域に入ってくるような気がします。
そして、お金を生み出さない、つまり産業で無くなった芸術は、それに利害の絡むような人の関わりが減る結果、純粋にそのコンテンツそのものを楽しもうと思う人しか関わらないようになるのではないでしょうか。タダだからこそ、それを選ぶ人の能動的な行動そのものが意味を帯びてくるわけです。現在でも能動的に「買っている」という意見もあるかもしれません。でも本当にそうでしょうか?自分の消費行動まで全て把握された上で、実は自分は買わされているということはないでしょうか。

結果的に、音楽を聞く人、映画を見る人、本を読む人は減るかもしれません。でも、良いものは今より正当に評価されるようになるような気もします。現在の商業主義的な状況では、価値=売り上げ、利益のあるもの、であり、市場は流通量でその価値を判断します。ところが、流通量に意味が無くなるデジタルダウンロードの時代には、内容の価値そのものが市場価値となるような、そういった正しい方向に向かうとは思えないでしょうか。



inserted by FC2 system