外国でウケる日本の曲 その2(03/10/19)


まず、いろいろ理想論を言ってみても、現実にはなかなかそうはいかないという話。
昨年、ウチの合唱団で間宮芳生の日本民謡によるインヴェンションをやったのですが、そのときの女声陣は文句言いまくり。間宮芳生なんて大っ嫌い、などと公言する人まで出る有様。もちろん、練習はしっかりやったし、演奏も出来る限り頑張ったはずですが、結局みんなの苦手意識は最後まで拭えませんでした。
旋律に入ったこぶしとか、のどを潰して声を出すような感じ(楽譜にそう指示されてなくても、そう歌うべきであろうことは推察できる)にしたくても、恥ずかしい気持ちからなのか、どうやっても中途半端にしかならないのです。こういうとき男声は吹っ切れるのが早いのだけど・・・
おまけに、アンサンブルコンクールに出場した折には、「日本民謡にふさわしい発声を」などと講評には書かれてしまいました。そう書きたい審査員の気持ちはわかるけど、これではコンクールなどの場で民謡をベースにした作品を選曲するのは損だということになってしまいます。だって、普段我々が練習している発声は西洋的な合唱をベースにしたものなのですから。
そもそも日本民謡を歌う発声法など、学術的に体系づけられているわけでもないし、それを得意としている合唱団などというのも聞いたことがありません。

ウチの状況だけが特殊だとは思えません。恐らくは、多くの団で同じようなことがあるのではないでしょうか。
だいたい、合唱への憧れというのは、多くの場合、オーケストラ+大合唱団という派手なステージのイメージが頂点にあって、ほとんどが西洋音楽への憧れと同義だと思うのです。クラシック音楽全般のリスナーというのはそういう傾向が強くて、そんな中に日本的な音が入ることはもう許しがたいことです。日本の作曲家だって、武満徹くらい世界的に評価されないと聞く気もしないでしょう。

そこに恐らく、合唱に対する考え方の西洋との根本的な差があるように感じます。
例えば、外国から日本にやってきた合唱団は必ずといっていいほど自国の民謡作品を歌うし、海外の合唱コンクールでは、自国民謡を歌うことを強要されたり、そういう部門もあったりします。どちらかというと、合唱が民族の団結と高揚のために使われている感じがします。
宗教音楽にしても、まさに自分たちが信仰しているものを扱っているわけで、自分自身の祈りと重なることも多いでしょう。確かに欧米でも宗教離れはあるようですが、何百年に渡って培った宗教的な文化は日常社会にしっかり根を張っているはずです。
そう考えると、西洋人にとっては、合唱は芸術というよりもっとプリミティブなところが原点になっていて、そういうベーシックなものの上に芸術方向への高みが構築されているように感じます。

先週、民族性というのは表象的な部分と、心情的な部分で成り立っていると書きましたが、恐らく西洋人にとっての合唱は、心情的には民族のプリミティブな感情を表す表現手段と捉えているのではないでしょうか。心情的な部分は、他民族が理解するのは難しいわけで、西洋人なら合唱というからには日本人であっても民族的な表現を好んでするものだと思うのでしょう。
逆に、日本人がいくら日本人の心情を歌詞に乗せても、それが乗っている音楽が西洋的なものに根ざしていると、西洋人には安っぽい泣きのメロディくらいにしか感じられないのかもしれません。
日本人にとっての合唱とは、残念ながらまだ西洋音楽の借り物でしかありません。まだ、と書いたけど、グローバル化が進む昨今、すでに民族性というのが今後発展していくのは難しいとも思われますし、もしかしたら日本人が西洋人と同じ心情を感じるようになるまで待たなければいけないのかもしれません。でも、それでは、日本民族じゃなくなってしまうわけで・・・、なんだか根本的な矛盾に陥ってしまうのです。


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