権威について考える(03/9/13)


たまたま、岩波新書で「権威と権力」(なだいなだ著)という本を見つけて、会話調で簡単に読めそうなので買ってしまいました。精神科医と高校生の対話という感じで本は書かれており、とてもわかりやすく、また示唆に富んだ内容でした。
紹介というわけではないけど、この本の内容に多少沿って書いてみようと思います。

この権威というものについて、皆さんは考えたことがあるでしょうか?
例えば、音楽をやっていれば、その筋で有名な人たち、例えば学者、指揮者、作曲家、その他評論家など、そういった人たちの意見というのは私たちアマチュアにとってとても参考になります。しかし、それでも過度にそういった意見に依存すると、自分の意見を持っているようで、実はほとんどある有名な評論家と同じ意見だったりしないでしょうか。気がつくと、自分独自の意見を持つということが出来ないような人が生み出されかねません。

一般的に権威主義という言葉はいい意味では使われません。たいていは人を非難するために使うでしょう。
だから、無批判に有識者の言葉を受け入れてしまうような態度をみると、我々は権威主義的だと思わず感じてしまいます。実際のところ、そういう人たちは決して少なくないし、私とて他人のことを権威主義的だなあなんて思うこともしばしばです。

権威というのは、知識や実力の落差から生じるものです。
人は物事がわからないときに不安を感じます。このとき、権威にすがるのは安心感を得るためです。
我々が医者にかかったとき、医者の言うことをよく聞こうと思うのは、医者が我々にとって権威を持っていると思われるからです。ここで重要なのは、医者の権威とは医者にあるのではなく、我々の心の中にあるということです。権威の実態とは、あるものを自分の権威と位置づけようとするその人の心の問題だということができます。

もちろん、一人の人間が世の中の全てのことをわかるわけではありませんから、私たちは何かにつけ、権威の意見を参考にしながら生活しています。例えば、私がそれほどスポーツとかに詳しくないとすると、ニュースなどでスポーツ評論家がいろいろ解説しているのを観て、なるほどそうなのか、なんて思いながら聞いたりするわけです。ところが、これが多少なりともスポーツに思うところがある人なら、テレビに出るような評論家の言うことにも突っ込みを入れることはできるでしょう。おまけに、それを素直に信じた私は「そりゃー違うよ」なんて言われてしまいます。どちらが正しいかは結局私が判断せざるを得ないのだけど、そのために自分が誰を信頼すべきかを決めておかなければいけません。

本来、我々はいろんな時に判断をしなければいけないわけですが、全て自分の能力で解決できるわけでもなく、そんなときに人の意見を聞きたくなります。その際、意見してくれる人の地位が高ければ高いほど信頼が増します。権威に頼ることによって、我々は日々の判断を他人に委ねることができます。要するに判断することを放棄するわけですが、その分私たちの精神的負担は少なくなります。つまり権威が欲しいと思うのは、私たちの内なる希望でもあるのです。

しかし、少なくとも音楽に関しては、私はいかなる権威からも中立でありたいと願っています。
そのためには、全てを自分で判断しなければいけません。それでも、自分がそういう選択をし続けることが、音楽に対する飽くなき挑戦を続けるための大前提だと思っています。


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