文化という遺伝子(03/5/24)


「最近面白かったもの」にも書いた「利己的な遺伝子」という本の中で、「ミーム」という章があります。
遺伝子の本質が自分を複製することにあるのなら、逆に自分を複製するものは遺伝子的な振る舞いをし、生物が進化するがごときの様相を呈するはずです。
人間が他の生物と圧倒的に違う点は「文化」を持っているという点にあるでしょう。そして、この文化は、人々に次々と伝播していくという特性から、遺伝子と同じ類似な性質を持っていると著者ドーキンスは語ります。
遺伝子は「Gene」なので、それと似た発音を持つ言葉として「Meme(ミーム)」という言葉を、ドーキンスは考え出しました。

これは極めて抽象的な概念なので、具体例を示すのは非常に難しいのですが、例えば、思想・ファッション・食生活・言語・音楽など人間生活を取り巻く文化的なものは全てミームに相当する例になります。
例えば、言語ならどうでしょう。日本人は日本語をしゃべります。生物個体がいくつもの遺伝子のセットを持っているように、日本語も多くのミームから成り立つ大きな括りの文化的単位です。親や学校が子供に日本語を教えることで、日本語は伝播していきます。地方によっては独自の進化をして、方言が生まれます。しかし、それでもまだ日本人全体が通じる範囲内に留まっています。
遺伝子が突然変異するがごとく、新しい言葉は次々と生まれてきます。その言葉が人々の心をつかめばすぐに広まります。中には時間を経て忘れ去られる言葉もあるでしょう。しかし中には生き延びて、国語辞典に載るまで定着していく言葉もあるでしょう。
言語のこれだけの性質を見ると、確かに生物が進化する過程とのアナロジーを感じざるを得ません。

基本的にミームは、人から人へ伝えられ、人の脳の中で記憶として留まるものです。しかし、ご想像の通りその複製の精度はきわめて低いはずです。従って、進化のスピードは極めて速いのです。
しかしその一方、私たちは本を書いたり、楽譜を書いたり、絵を描いたり、建物を作ったり(もちろんその設計図も)して、ミームが完全な形で残る方法も持っています。今では、人々の脳内の記憶に頼るだけでなく、広大なコンピュータネットワークの中に知識として蓄積していくことも可能でしょう。
そういえば、情報がデジタル化することによって、コピーが容易になるというようなことを何回か書きましたが、これぞまさに究極的なミームの姿といえますね。これは遺伝子が自ら複製されるために、利己的な振る舞いをしているとみなせるように、昨今のIT化、デジタル化はミームが自分をより多く、そして正しく複製させるために、利己的に振舞った結果現れたものだと考えることも可能ではないでしょうか。

遺伝子もミームも本質的には自らの意思を持たない単なる自己複製子です。彼らが目的を持っているように見えるのは自然淘汰のおかげです。私たち、人間一人一人は単にそれらを伝播する手段に過ぎませんが、ミームに関して言えば自ら新しいものを作り出すことが可能です。そして、それはまさにその生み出す人の意識の作用によるもののはずです。もちろん、そのように考えたくなるのは物事を個人レベルの視点で見るからですが、それでも自らの意志を持って新しいミームを作り出したいと思うその気持ちは特定の人々にとって魅力的な考えです。
人は何のために生きているのか?などと哲学的な問いを考えてみたときに、私はこんな答えを出したくなります。人は、遺伝子かミームを遺すために生きていると。



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