器楽曲をどう書くか(03/5/19)


前回、形式の話を書いた後、実は同じようなことを前にも書いていることに気付きました。
いずれにしても、今の時代、器楽曲をどう書くかについては形式の点で多くの迷いがあります。どんな音楽とて、同時代性を無視して書くわけにもいかないし、逆にいくら無視しようとも今この時代に生きていることを曲の中に反映させまいとするのは不可能なことでしょう。
実際世の中を見渡してみれば、私たちが耳にする新作の器楽曲は、ほとんどは何らかのイベントの機会音楽か、映画、テレビなどの随伴物だと思います。当然、こういった音楽は音楽が自律的な形式を持つことが許されません。なぜなら、これらは音楽そのものを鑑賞するためというよりは、メインとなるイメージを音楽が補助的に表現しているものであり、常に従属的な立場にあるものだからです。私自身、本来音楽はそのような性格を持っているものだと考えてはいますが、それでも音楽が持つ芸術的な可能性が制限され、ひたすら消費されてしまうことには一抹の寂しさを感じます。
もう少し視点を広げれば、クラシック的でない世界にも器楽的音楽はたくさんあります。例えば、ジャズ、フュージョン、一部の先鋭的なポップス、ロックのインストルメンタル物など、最近ならヒーリング、民族楽器物など。しかし、これらも大衆に売り出している物に関しては、ジャズのような独自様式を持っているものを除いて、ほとんどは歌謡曲的な形式を持つものです。歌謡曲形式というのは私が勝手に言っている名前ですが、曲の構成がイントロ-Aメロ-サビ-間奏-Aメロ-サビ-間奏-サビ、といったようなポップスの曲と似た楽曲構造で、どの曲にも曲の具体的なイメージを表すタイトルが付けられます。間違っても、第何番とか、なんとか協奏曲みたいな抽象的な名前は付けませんね。
クラシック的ではないと言いましたが、最近ではクラシカルなアーティストもアイドル的な売り方をするようになってきて、そういうアルバムはやはり上記のような方針が採られているように思われます。しかも、彼らは演奏だけじゃなくてルックスも重要なのですね(この手のアルバム、ほとんど若い女性アーティストばかり^^)。
そう考えると、世の中で聞ける音楽というのは、いわゆるクラシック音楽的な大規模楽曲とは基本的に性格が異なっているものです。

一方、クラシック的世界を多少なりとも引きずっていると思われる現代音楽の世界は、もはや私には市場性が感じられません。クラシック的な作曲家は、それでもこういった世界で作曲せざるを得ないわけですが、市場性がない以上競争が働かず、この世界はますます縮小していくことでしょう。最近は、アカデミックな音楽教育を受けた人たちが積極的に上記のような商業世界で活躍するようになり、ある意味社会的には正しい方向にはなっているものの、その場合さきほど言ったような音楽の消費化は避けられません。

実はこんな話も何回も書いてたりして(「作曲家は今日も悩む」、「ポピュラーっぽいは誉め言葉」、「器楽曲を書く難しさ」など)、相変わらずの私のテーマですね。結局今までも言ってきたことですが、今の時代にクラシック音楽的な形式を持つ音楽を書くことが本当に必要なのか、私はどうしても首を傾げてしまうわけなのです。

まあいろいろ考えても、私のような素人作曲家が出来ることは微力なものです。
そこで、私としては「アマチュア演奏家のための室内楽」をターゲットに絞って、器楽曲を作っています。
世の中にはたくさんのアマチュア音楽家がいます。しかし彼らの演目は古典派やロマン派に集中しています。現代曲を演奏しないのは、曲の魅力の問題もさることながら、演奏技術の問題も無視できないと思われます。だいたい難易度の高い曲というのは、個人の演奏技術ばかりが試され、アンサンブルで曲の表現を作っていく楽しさを感じるのが難しいのです。それは、結局音楽活動の楽しみから一段と遠ざかることになりかねません。
私がここでいう「アマチュア演奏家のための室内楽」とは、ある程度のクラシック的な形式を持つが、曲の雰囲気はポップス的であり、なおかつ演奏の難易度がそれほど高くないというような傾向の曲です。そして、この方向性は小さいながらも多少の市場性を持っているのではないかと期待しているのです。
ちなみに私が書いている曲の具体的な方向性は、「仮想楽器のためのアンサンブル」から変わっていません。今も、ちびりちびりと新しい曲を書いている最中なのです。



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