器楽曲を書く難しさ -形式論-(03/5/10)


声楽曲と器楽曲の圧倒的な違いの一つとして、形式の問題があると思います。
声楽曲は歌詞があるため、歌詞の構造に楽曲構造が束縛されます。もちろん、歌詞の文脈の構造を無視してコラージュ的に言葉を扱うことも可能でしょうが、一般的とは言いがたいでしょう。そもそも歌詞自体が何かしらの文章であり、そうであるならばそこに文章としての起伏が存在するはずです。そして、それに曲を付けようとした場合、その文章の起伏を利用して曲をつけるのが最も正しい作曲のやり方のはずです。
では器楽曲ではというと、これはもう作曲家の自由で、何でもアリなわけです。
普段、声楽曲を中心に書いていると、この何でもアリがあまりに負担になってしまい、なお一段と器楽曲を書こうという気力から遠ざかってしまいます。例えば音楽形式の本など紐解くと、2部形式、3部形式から始まって、変奏曲形式、ロンド形式、ソナタ形式、フーガ形式、と立派な解説がされているわけですが、では現代に書かれる音楽はというと、もはやこのような古典的な形式をその通り使っているという例は稀であり、書き手としてますます悩みは深まってしまいます。

何にしても本質に立ち戻ろうとしてしまう私としては、まず音楽形式とは?という疑問を解決したくなります。
そもそも、クラシック音楽を聞いている人がどこまで作曲家の考えた形式を理解しているのか、正直言うとかなり疑問だったりします。後期ロマン派の長大な交響曲はたいてい女性には好まれません。なぜなら、このような長い曲は形式の理解なくしては曲の鑑賞が難しく、音楽を論理的な脳で聴かなくてはいけなくなるからでしょう。
女性に論理的思考がないと言わんばかりで批判を受けそうですが、むしろ私は彼女らの素直な感性を無視してはいけないと思っています。メロディの美しさ、響きや雰囲気の美しさをそのまま受け入れる感性は女性の方が高いと思っているからです。
それはともかく、そうなると音楽形式というのは、どうも必要悪のようなものに思えてきます。つまり、長い音楽を書こうと思うなら、そこには必然的に構造が生まれてしまい、書く立場からその構造をカタログ化する必要に迫られるのです。
もちろん、創作家には大規模な作品を作りたい欲望というのが常にあるもので、創作物における圧倒的なスケール感は芸術の偉大さを感じさせる一因になります。音楽における規模感とは編成の大きさであり、時間の長さです。しかし、エジプトのプラミッドに多くの人が驚嘆するのと同じようにマーラーの交響曲に驚嘆するとはどうも思えません(マーラーであることに他意はありませんが^^;)。それは、やはり音楽が時間の芸術であり、規模感の体験に長時間に渡る忍耐が必要になるからではないでしょうか。
個人的な意見ですが、どうも音楽における時間的な規模感というのは、創作家が思っているほど聴衆を圧倒するような要因になり得ないような気がしています。そして、その時間的な規模感を構築するための音楽形式も、どこか過剰に感じることがあります。

例えば、長時間音楽形式の総本山とも言えるソナタ形式には、もはや手段が目的化したような観があります。
二つの性格が違う主題を提示すれば、曲の持つ雰囲気は拡がり、一つの楽章を終結させるのにどうしても時間がかかります。性格が違うものが共存すれば、それは対決の構図となり、音楽の中に抽象的な物語性が生じてくるからです。対決となれば一回限りでなく、いろいろな対決方法が存在できるようになります。いやむしろ、そのほうが自然でしょう。激しくぶつかり合う対決、静かで心理的な対決、絡み合いの対決、そういった過程を経て再び二つの主題は再現されるわけです。
古典派からロマン派にかけて、このような形式が中心になったのはやはり時代の雰囲気のせいもあったのかもしれません。このあたりの考察は私には荷が重過ぎますが、いずれにしろ作り手にも聴き手にもかなり忍耐のいる音楽であることは確かでしょう。

もちろん、こういう大規模形式に一定の人々が魅了されている事実は否めません。
しかしこう書いてみて、改めて自分自身としては、音楽形式がどちらかというと必要悪的なものであり、メロディや響きの美しさを際立たせるために必要最小限な形式を求めている気がしてきました。



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