ツールとしての楽譜、作品としての楽譜(03/4/26)


前々回の談話の中で、楽譜のコミュニケーションツールとしての側面、という表現をしました。
こう書いた後、必ずしもそういった観点で覆いきれない方向というのがあるような気がしてきました。それは、簡単に言ってしまえば「作品としての楽譜」といったような側面です。

これは、作曲家と演奏家という分業体制の度合いなどに依存するものです。
例えば、ポピュラー音楽においては、作品は楽譜という形では一般的に供給されません。普通はCDなどによる音源が、各アーティストのアウトプットです。彼らが録音する際、もちろん多少の楽譜は利用しているかもしれませんが、実際には恐らく音符のみが書いてあるような簡素な楽譜であったり、場合によってはコードネームのみ、あるいは曲の構成のみしか手渡されないものと推察します。もちろん、市販されているバンドスコアは、普通はバンドとは関係ない人が耳コピして出版しているものです。
これは、曲を書いたり編曲したりする人と、演奏する人が間近にいて、しかもその演奏情報が一般演奏家を意識したものでないからこそできることです。
ジャズでは、たいてい楽譜というのはコードネームと曲の構成と決めのパターンくらいしか書いてありません。曲の構成だって、即興演奏の長さが決まっていない場合もあるでしょう。しかし、ジャズにはある程度の共通の様式があり、それにのっとっていれば楽譜の情報が非常に少なくてもアンサンブルが可能です。
クラシックでも、例えばバッハの楽譜は、ほとんど音符のみで、強弱記号、テンポ指定、アーティキュレーション指定というのは、現在の楽譜から見れば驚くほど少ないのです。これは、もちろんバッハがこのような情報をあえて書かなかったわけではなく、当時の楽譜のあり方というのが、その程度の情報のみしか必要とされなかったからでしょう。さらに時代をさかのぼってルネサンス時代までいくと、もはや楽譜は音符しか書かれていないものとなります。
もちろんバッハより以前は、作曲家と演奏家が非常に近いところにいて、しかもその演奏様式に暗黙の了解があったからこそ、そのような記述でよかったのではないでしょうか。
つまり、楽譜を作曲者と演奏者とのコミュニケーションツールと考えた場合、楽譜に書く以前の様式のお約束、あるいは共通の知識が多ければ多いほど、楽譜に書く情報量は少なくてよいということになります。あるいは、演奏の現場に楽譜を書いた人がいれば、練習中に楽譜に書いてあること以上の指示をすることも可能でしょう。

ところが、クラシック音楽においては、作曲家と演奏家が次第に分離され、作曲家は不特定多数のために楽譜を書くことがその仕事になってきました。
不特定多数にも理解できるように、テンポ指定や強弱記号も詳細に書くようになります。最初のうちは、楽譜を通して演奏家とのコミュニケーションを充実させるために行ったはずですが、次第に楽譜に「紙に書かれた作品」としての完成度を求めるようになっていくのは当然の成り行きでしょう。
現在の楽譜にあるような過剰な音量指定、アーティキュレーション指定、果ては言葉による詳細な演奏法の指定などは、演奏の現場では必ずしも一つずつ忠実に解釈され守られているとは思えません。それらは、場合によっては、その楽譜から生まれる音響の指定を超えて、もっと抽象的な、あるいは精神的な主義・主張に関わるものを表現しています。そして、それでもなおこのような詳細な指定をすることは、もはや演奏家とのコミュニケーションのためというより、芸術家として紙の上に一つの作品世界を構築するような行為であると言えるでしょう。
とある現代音楽家のサイトで、作曲家によって書かれる楽譜とそれによって演奏される音楽とは積極的に関係ないと言ってよい、などという文章を読んだのですが(文脈から言って、演奏に関する責任の問題でないことは確か)、そのとき私は「なるほどなぁ」と思ったのです。ここまではっきり言ってもらえば、かえって納得してしまいます。これなどは、作品としての楽譜の究極の姿を言い表したものでしょう。

もちろん、世の中の楽譜を二つに分ければ、などという意図はありません。むしろ、これらは一つの楽譜の中に内在する二方向のベクトルです。
実際、楽譜の中で最も物理的に忠実に守られる情報は音符の音高と音価だけと言っていいでしょう。それ以外の情報は、ある意味音楽の情緒的指定と呼んでも良いものです。
テンポだって、作曲家がメトロノーム記号で書いても絶対的に守られるものではないし、音量などは物理的規定が不可能です。しかしある程度これらを気にした場合、ひたすら情緒的指定を増やしていこうとするのか、音符の力だけに頼ってみようとするのか、作曲家によってその方向性は微妙に異なりますが、少なくとも現代の多くの作曲家においては前者が勝っていると言っていいでしょう。


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