生きた音とは?(03/2/22)


演奏するものでいる以上、「音が死んでいる」と言われるよりは、「音が生きている」と言われたいものです。抽象的な言い回しではありますが、では生きた音とはどんな音でしょうか。
合唱の練習の場では、この「生きた音」を出すために、指揮者は一体どんな指示をするでしょう。あるいは、あなたが指揮者だったらどんな指示をしたいでしょうか?もっとも、指揮者の指示の全ては「生きた音」を出すためとも言えますが、音楽的解釈とはちょっと別のもっと狭義の意味だと思ってください。
もちろん、「もっと心を込めて」とか「表情を豊かに」とか、心理的に訴えることは出来るでしょうし、多くの場合、それが最も効果的なのかもしれません。特に合唱・声楽の場合、歌詞がありますから、この歌詞の情感を伝えようと歌い手がより踏み込んで表現すれば、かなり音楽は変わってきます。しかし、歌詞の意味があまりストレートに伝わってこない外国曲、とりわけ宗教曲などどうしたら良いでしょう。同じように器楽曲ならどうしたらいいでしょう。
もっとも器楽の世界はあまり詳しくないので、私の知らない効率的な指摘方法があるのかもしれませんが。

「生きた音」をちょっとだけ科学的に検証してみたいと思うのです。
それで今私は、「生きた音」とは、<常に音が変化していること>だと考えています。生きている以上、変化を続けるのは当たり前で、変化が止まったらそれは死んでいると我々は認識するでしょう。同じように音楽でも、一つの音が常に変化し続けるのを聞けば、音が生きている感覚を感じるに違いありません。
電子楽器の大きな弱点は、現在発音中の音の変化に乏しいということだと私は思っています。もちろん、ピッチベンドやエクスプレッションペダルなどで、演奏中にピッチ、音量などをコントロールすることは出来ますが、生楽器演奏での微妙なブレスや力の入れ具合での音の変化に比べると、もっと能動的なコントロールを必要とされ、「音が生きている」感覚よりも、音を操作する感覚に近いものです。
なぜ、電子楽器は音の変化に乏しいのかというと、決められた波形を周期的に出しているだけだからです。現在主流のPCM音源なら、サンプリング波形をたくさん持てばより変化の多い感じは受けますが、それはテープを再生しているのと同じで、その場で奏者が生命を吹き込む作業とは根本的に異なります。残念ながら、これは電子楽器が破ることの出来ない構造的な問題です。

音の変化は、音量、ピッチ、音色という3つの要素で捉えると分かりやすいです。
まず、最も手っ取り早く、あるいは効果的にこの変化している感じを出す方法はビブラートをかけることです。ビブラートとは決してピッチだけでなくて、音量や音色にも影響しています。特に旋律を担当するパートであれば、このビブラートはほとんど必要不可欠な要素であると言えるでしょう。
もちろんビブラートでなくても、微妙な音量、ピッチ、音色変化で音が生きている感じを出すことは可能ですが、そこにはかなりの音楽的センスが要求されることになります。

しかし実際のところ、アンサンブルの中で我々が直面している問題はむしろ逆だったりするわけです。
アマチュアの音楽演奏の現場では多くの場合、「音が生きている」を飛び越えて、音は暴れまくっています。そのため、ピッチがぶれないことが要求され、音量もなるべく平均化することが要求されます。しかし、この状況の中で音を生かしていくことこそ指揮者(トレーナ)の腕の見せ所ではないかと最近思うのです。
つまり、パートのばらけを単純に揃えようとすると、各人の持つ「生きた音」はどんどんスポイルされてしまう可能性があります。気持ちだらけ、あるいは生理的欲求だらけの原始的生命を、成熟した大人の生命に育て上げなければいけません。それは、決して枠に当てはめ、規律だけを設けていくこととは違うわけです。
各奏者の力量はどうしても一定にはなりませんから、ある一定基準を作ってしまうと、それに達しない奏者は無理をして自分のキャパシティを超える表現をしようとし、歪みが起きます。逆に、一定基準に達している奏者は、その人の持つ音楽的表現力の可能性に気がつかないことにもなりかねません。
もちろん、どのように音楽を作っていくかはケースバイケースではありますが、この両輪をしっかり見据えて(意識して)音楽に臨んでいきたいものです。


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