作曲家は今日も悩む(02/11/30)


曲を作るには相当な精神的パワーが必要だと思います。
とりわけ今の時代、芸術的な領域における新作作品の市場はほとんどないと言っていいでしょう。大体これ自体が、とても不健全な状況です。しかし、その一方で必要とされる音楽を作るいわば機会音楽の市場は決してないわけではありません。しかし、その領域は商業主義として、意欲的な作曲家の指向とは益々離れつつあると思います。

真っ白な五線紙に好きな音符を並べることが出来るその自由は、時折あまりの自由さに作曲家を立ちすくませます。ある意味、制約があったほうが、音符を並べる精神的負荷は減るものです。だからこそ、ジャンルとか形式と言うものがあるわけだし、上の商業音楽であれば3分以内とか、テンポは早目とか、制限は恐らくたくさんあるでしょう。
音符を書く作業の制限と言うことであれば、編曲(アレンジ)などが最たるものです。同じような譜面であっても、オリジナルの作曲と編曲では精神的パワーは全く違うと言っていいかもしれません。なんといっても編曲の場合、すでにメロディと曲の構成が決まっているのですから。もちろん、編曲行為を作曲に対して一段低く見ているというような意味ではないのです。音を並べる技術としては同等のものは求められるのは確かです。しかし、創作の最も基本的な部分、「何を作りたいのか」「何を訴えたいのか」といった作曲における思索の根本的な部分は、編曲の際あまり考慮する必要はありません。

作曲と言うと、どうしても和声理論であるとか、対位法であるとか、管弦楽法であるとか、そういった技術的な部分がフォーカスされることが多いのですが、作曲家が最も悩むことは、実際にはあまりに自由な選択肢から何を選び、どのように作っていくのか、といった作品の本質的なテーマのあり方です。
もっといえば、作曲を通して人に何を伝えたいのか、なぜ私はこんなに悩んでまで作曲をしようとするのか、そもそも作曲することの意味とは何か、とまで思考は進み、その中で迷宮に陥ります。一見、方向性のはっきりしている作曲家でさえ、実際には振り子のように絶えずその思索は揺れ続けているはずです。
その中で確かなことは、そのような迷宮を最終的に凌駕してしまうだけの、創作家の心の中にある「作曲衝動」がある、ということです。恐らく作曲技術を持つ人が、作品を生み続ける作曲家になれるか否かは、その「作曲衝動」の強さに関わっているのでしょう。
あるいは、作曲技術などというのはそもそも幻想で、その衝動の強さこそが技術力と密接な関係にあるのかもしれません。

最初に言ったように、芸術領域(というか創作家が自由な発想で書くという領域)の仕事と商業領域の仕事が益々乖離するにつれ、芸術領域の自由さは逆に過激になる一方です。ところがその過激さが、新作に人々が期待しなくなることの一因ともなっていて、そういった負のフィードバックが加速しているようにも思えます。
そのような状況もさらに、作曲家の考えなければいけない要素のうちに加わって、益々作曲家の悩みは深まります。

今の時代、もしかしたら作曲家なんて要らないのかもしれません。メロディやリズムパターンは部品化され、それを組み合わせれば商業的な用途ならこと足ります。皆さんが聴いている音楽のほとんどは、サンプリングされて売られている音色を利用して作られています。それらを組み合わせるツールはいまや一般の人にも手に入り、作曲の技術さえ必要なくコラージュされた音楽は作り出せます。
いまや、必要な音楽はあまりに簡単に手に入ります。一回聴いてインパクトがなければ、誰もその音楽に振り向いてはくれません。そんな時代に必要な、全く別の音楽の姿というものがあるのではないか、などと考え出すとまたまた迷宮に陥っていくのです・・・。



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