名曲の条件 その3(02/11/16)


最新のハーモニー秋号には、ついに作曲家シリーズに千原氏が載りましたね。
この対談は、結構面白い内容が書かれていると思います。千原氏の人柄もなんとなくわかってきて興味深いし、私の前の談話でも書いていたことがいくつか言及されていました。神奈川合唱曲作曲コンクールの入賞者リストを見れば、千原氏の存在はいやがおうにも気になるというものです。
それに続き、松原氏がこんなことを言っています。
「洋の東西を問わず、コンクール一位の作品より他の作品に個性があるように思うんです。」
これを見て、やっぱりこういう議論というのがあるんだなあ、と感じました。これは、私自身も漠然と思っていたことで、作曲コンクールというものの本質的な問題点を言い当てているような気がします。

ただし、上の言葉の「個性」という言葉はかなり慎重に扱わなければいけません。使いやすい言葉ではありますが、どのようにも解釈が出来てしまい、議論が収束していきません。私なら、上の言葉は次のように言い切ってしまうかもしれません。
「洋の東西を問わず、コンクール一位の作品より他の作品が名曲として残っていると思うんです。」

最初に、音楽の評価にはどうしても音響以外のプロパティが必要になる、と書きました。実際のところ、このようなプロパティの中で最も悪しきものは「誰が作曲したのか?」というプロパティです。ところが、このプロパティは最も多くの人が知りたがり、必要とするものです。
例えば、有名な作曲家が新作を発表したとします。その新作を聞こうとする聴衆は、その作曲家が過去にどのような作品を書いて、どのような社会的主張を持っているか、すでに知っているかもしれません。あるいは、個人的にお世話になったり、お世話したりして、人間的なお付き合いもあるかもしれません。もしかしたら、そんな詳しいことは知らないかもしれないけど、最近有名な作曲家らしい、という情報だけ知っているかもしれません。
演奏される前からこれだけのプロパティを背負って初演されるというのは、純粋な音楽の鑑賞にもどうしても何らかのバイアスがかかってしまうように感じます。これが往々にして、新作発表時の評価と、時代に淘汰された後の評価の違いに結びついていきます。
しかしそうは言っても、私たちはこの曲を誰が作ったのか知りたいし、それを知った上でないと怖くて評価できないでしょう。

実は作曲コンクールというのは、そのような恐怖と向き合うことを審査員に強要する場でもあると感じています。
コンクールであれば公平を期すために、音楽以外の情報は通常は隠されるものと推察します(もし、そうでなければ賞の権威に関わると思う)。このように音楽以外のプロパティを目隠しされた状態で音楽を評価するというのは、一般的には早々あり得ないことで、時代の淘汰で名曲が残るようなプロセスを審査員の思考に要求しているのと同じことです。
審査員とて同じく創作活動を続けている作曲家なら、日夜そのことに思い悩み、自分がどのような音楽を目指していくか手探りしているはずで、そういう意味では応募者と比べなんら精神的に優位な立場を持っているとは思えません。そうなると、審査員が優位な音楽的技術の面で評価せざるを得ないのです。
結局のところ、作曲コンクールで選ばれることは作曲技術が長けているということを象徴します。しかしそのような音楽が、未来にわたって名曲として残っているだろうかという疑問は我々に常に付きまといます。それならば、そこそこに技術力があって入賞に引っ掛かる曲の中に名曲があるかもしれない(しかもそれをコンスタントに生み続けられるなら、なおさら)という漠然とした想いが、恐らく上の松原氏のような発言に結びつくのでしょう。

作曲コンクールの話になってしまいましたが、名曲がどのように生まれるのかそのプロセスを考えると、そういうシステムの最も小さな単位が作曲コンクールとも思えます。だからこそ、この場で評価しきれないことが「名曲である」ことの隠れた条件となるのではないかと考えられるのです。


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