ノーベル賞と田中さん(02/11/2)


ちょっと旬を過ぎたかなとは思いますが、まだまだノーベル賞受賞の田中フィーバーは収まっていないようです。同じくノーベル賞を受賞した小柴さんの影が薄くなってしまうほど、田中耕一さんのノーベル賞受賞は大きなインパクトがあったようです。
今回改めて思ったのは、ノーベル賞選定があらゆる権力と無関係で、その独自の思想を大切にしているという態度です。こういった学問の業績に対して賞を出す場合、実際のところその世界の権威と無関係に判断されるというのは相当難しいことだと思うのです。だからこそ、そういう姿勢を貫いているノーベル賞は世界的な価値があるのであり、例えば日本政府が与える勲章類がその分野で長い間活躍しているという功労的なものであるのと比べると、非常に対照的です。その姿勢を貫くために、選定過程が全て非公開で行われることは十分に理解できるものです。

それにしても、田中さんの受賞は日本的社会においては非常に衝撃的だったことでしょう。
何の権威も持っていない一サラリーマンが、いきなりノーベル賞を取ってしまうというこのナンセンスさは日本社会の日常では考えられないものです。それを追認するように、名誉博士とか名誉市民とか文化勲章とか立て続けに出すさまもなかなか笑えます。そのように単にノーベル賞の追随をしているだけでは、逆に名誉博士や文化勲章の価値も下がってしまうでしょうに。これでは、日本の名誉賞的なものは独自の価値判断で与えられるものではないと露呈しているようなものです。
もちろん、そういった動きを批判するつもりは毛頭ありません。問題があるとするなら、田中耕一さんの実績に対して、ノーベル賞よりももっと早く周囲の誰かが積極的に評価するべきでした。その研究の中身がどれほどの価値があるものか、部外者である私にはわかりませんが、新聞などで見る限りは医療関係の研究において革新的な発明であったわけで、そういうことをしっかり把握して評価できる人というのがいるべきだったと思います。

それにしても、田中さんがここまで話題になるのは、何といっても彼のキャラのせいでもあるでしょう。
彼のように権威を持たない者が一躍有名になったとき、そういう自分を過剰に演出しているようなそんな気さえします。テレビでは「癒し系」などといっていますが、すでに彼が自虐的ギャグで人の笑いを誘う様には十分な貫禄さえ感じてしまいます。田中耕一さん、恐るべしです。
もし、彼が本当に先見性のある研究者であるなら、これだけの環境が揃えられてもっともっと凄いことができるかもしれません。凡人なら名誉の中に胡坐をかいて、妙に威張りくさって一生を終えてしまうでしょうけど。
羨ましいと思う反面、好きなことをしていいと言われた後の彼はそれなりの重荷を背負ってしまったのかもしれません。

実は私、田中さんと全く同じ大学の学科を出ていますが(これが言いたかった^^;)、どこで人生変わっちゃうものかなあと思わず考えてしまいます。確かに東北大学は理系の中でもなかなか独創的な業績を持っていると言われますが、それが彼を育んだなどと報道されると、私もそんな風に育まれたのかと疑問を感じてしまいます。私は幸い留年は免れましたが(ドイツ語が危なかった)、3年間は合唱ばっかしやってましたしねえ。



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