名曲の条件(02/10/20)


とある本で、三枝成彰氏が音楽を乱暴に三つに分けると、「踊る音楽」「泣く音楽」「芸術音楽」と分けられると言うような記事を書いていました。「踊る」とは盆踊りからクラブ・ミュージックまで、身体を揺り動かすための音楽、また「泣く」とは、泣いたり喜んだりというように喜怒哀楽の感情を表現し、人の気持ちを揺り動かす音楽、そして「芸術」とは、人生とか価値観とか思想などを人々に問いかけ、新しい時代精神を追い求めるような音楽、ということだそうです。
「踊る」と「泣く」に比べると「芸術」というのが、いささかベクトルが違うような気もしますが、音楽の本質を見極めるためにはなかなか面白い分類の仕方だと感じました。音楽を表面的になぞるなら、ジャンルの違いや成立の過程などで分けることも可能でしょう。しかし、音楽が人々にどのような影響を与えるか、という観点で捉えるなら、ジャンルの違いなどたいした意味はありません。
私たちは一体何を求めて音楽を聴いているのか、という問いに対して考察を進めるとき、おそらく「踊る」「泣く」そして「考える」といった要素はやはり重要なポイントになってくると思うのです。

以前、作曲コンクールについて書いたとき、曲を評価するなら、曲の良し悪しとは何なのか、名曲の条件について考えてみる必要があると書きました。無論、このようなことを、論理的に考えた上で結論付けることは不可能だとは思いますが、多少の整理をすることで見えてくることがあるかもしれません。
しかし、音楽をロジカルに考察することは非常に困難です。なぜならほとんどの場合、個人的な音楽体験や嗜好から離れて議論することが不可能に思えるからです。自分の感情を拠り所にしながら、それを普遍的な考えに敷衍するのは、かなり危険なことです。多くの音楽に関する討論が不毛に感じるのも、語り手のそういった無意識の働きが嗅ぎ取れてしまうからです。

それならば逆に、音楽の気持ちよさとは、もともと客観性などなく、個人的な体験に根ざしたところから来ているという考え方もありなのではないかと私は最近思っています。
音楽というのは、芸術のなかでもきわめて抽象度が高いものだと思います。音そのものは具体的な事物を指し示すことはできません。物事の形状や配置は、絵画とか造形で表現できるし、文学や演劇は私たちの生活そのものを表現することが可能です。しかし、音そのものが何らかの意味を持つためには、ある程度の最低ラインのお約束が必要です。音がお約束によって意味を持つ、最も良い例は「言語」です。言語とは子音と母音の連なりに規則を作り、その連結で意味を構築するという行為だからです。しかし、音楽の最低ラインの取り決めである音程と音価は、音楽そのものの文法を規定することが出来ても、それ以上の意味を付与するようなことは基本的にありませんでした。もしあったとするなら、例えばバッハの音楽におけるフィグーラのようなものなのかもしれませんが、それは極めて限定された範囲でしか通用しないものでしょう。

ですから、私としては、音そのものが具体的な意味を伝達することは不可能である、という前提をまずここで提起したいと思います。
しかし、それでも音楽は様々な意味をつけられて評論され、鑑賞されます。私の思うに、恐らく音楽というのは、どうしても音響としての音楽そのもの以外に、その音楽を説明するためのプロパティ(属性)が必要なものなのです。それはいわば必要悪のようなものですが、それが抽象芸術の宿命だとも思います。
恐らく、音楽につけられるプロパティの最も基本的なものが、「踊る」「泣く」「考える」ということになるのかなと思います。それ以上の価値観を音楽に求めるなら、音楽に対してもっとお約束を増やして、何らかの意味を付与していかなければいけません。実際のところ、芸術性の高い音楽を鑑賞するためには、たくさんのお約束を理解していることが必要です。それは、抽象度が高くなるほど、そのプロパティを増やさなければ共通の感覚で音楽を感じることが出来ないという事実を表しているように思えます。

名曲の条件といいながら、ずいぶんメタな話になってしまいました。しかし、演奏にしても作曲にしても、その良し悪しを評価するときに、音楽が持つ音以外のプロパティが重要な要素になっているという点は、もっと人々が気付いてもいいような気がしています。それが理解されると、音楽の客観的だと思っていたいくつかの美点が実は個人的な体験や嗜好に根ざしていた、ということに繋がると思うのです。



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