兎とよばれた女(02/6/22)


3週間ほど前に矢川澄子さんの訃報を聞いてから、矢川さんから頂いた「矢川澄子作品集成」をずっと読んでいました。この本を頂いたのは何年か前だったのですが、詩集のほうは全部持っていたし、かなり厚めの本だったので、全く申し訳ないことに積読の山に中に紛れていたのです。
この「作品集成」には、詩集は全て収められていますが、その他に「架空の庭」「兎とよばれた女」「失われた庭」の3つの小説、それから雑誌などに寄稿したエッセイ風の短文がいくつか収められた全部で700ページほどの本です。
もちろん、矢川さんにはこの他にもたくさんの翻訳の仕事があるのですが(しかも、それこそが最も矢川さんを世に知らしめている仕事なのでしょうけど)、この「作品集成」ではオリジナル作品が集められているということになるのでしょうか。

矢川さんの仕事の全体像となると私にはとてもわかりませんが、それでも詩集だけでは分からない非常に特徴的な小説の仕事があることをこの本を読んで痛感したのです。
私自身としては、矢川さんの初期の短編集である「架空の庭」は大変面白く読めました。全部で8つの短編からなるこのシリーズはしかし、それぞれが全く異なる趣を持った作品集となっています。もし全体を通して一つの傾向を言うのであれば、これは確かに幻想小説の系譜に連なるものだと言えるでしょう。私もポーを始めとした短編幻想小説が大好きな人ですから、この短編集は興味深いものでした。
それにしても、この扱う話題のバラエティの多さには全く驚きます。子供同士の遊びの中に潜む心理を描いたもの、片思いのOLの気持ちを描いたもの、ゲーテのウェルテルの悩みの外伝みたいな話、ギリシャの哲学者の同性愛の世界を描いたもの、などなど。いずれも、矢川さんの博識に驚くとともに、日常のささいな出来事とそれに対する心理がふとした弾みで非日常に通じてしまう、そういった独特の展開がとても面白く感じました。
矢川さんは昨年までファンタジーノベル大賞の審査員を務めていたわけですが、まさに矢川さんこそ今のファンタジー小説のはしりだったようにも思えます。

しかし、矢川さんの扱うテーマは恐らく70年代以降、ほぼ一つの方向に収斂しているように思えます。それらを最も端的に示した小説が「兎とよばれた女」「失われた庭」の二つの小説です。これら二つは、ほとんど私小説と言ってもいいほど、矢川さん自身を徹底的に自己解剖して書いていると思われます。
いくらか下世話な話にはなりますが、矢川さんと澁澤龍彦氏との結婚生活は、恐らく一般の人と極めてかけ離れたものでありました。結局二人の生活は破局を迎えましたが、矢川さんはこの生活の意味をその後半生問い続けるという作業をし続けていたように私には思えるのです。
正直に言うなら、矢川さんという人を知らずして(あるいは興味を持たずして)この小説を面白く読むことは出来ないでしょう。つまり、これらの作品は矢川さんという属性がなければ意味のない小説だと私は思うのです。そういう意味で、これらの作品はシリアスにしか読むことができません。女として、人間として、自分の存在価値とは何か、あるいは何だったのか、それが徹底的に考察され書き綴られているのです。最終的に結論など出ないことはわかっています。しかし、意識的にか無意識的にか、矢川さんの考察は渦巻きのように一つの点に向かって廻り続けているのです。
それでも、矢川さんの詩にあるようなアイロニーやパロディ、またその奇抜なアイデアは健在です。小説の中に小説の作者が出て来たりとか、千夜一夜物語のような話の入れ子構造だとか、読者を目眩ませようとする矢川さんのいたずらがその内容のシリアスさとうまくバランスを取っています。

恐らく矢川さんは、そういったバランスをずっと取りながら生きてきたのかなと、そんな風にも思うのです。澁澤氏との共同作業で培った異端文学的傾向と、児童文学の翻訳作業は、一見全く一致しないものですが(聞くところによると澁澤龍彦訳の「O嬢の物語」には矢川さんも相当関わっている)、矢川さんの中ではこういった極端な二方向が共存するのです。
また、矢川さんの著作からは、あまりに多くの死の予感が読み取れます。それは苦悩の上での死ではなく、まるで私には死への願望があったようにも思えてしまうほどなのです。
いや、これ以上言うのは止めましょう。幸い作曲の立場から、このような詩人の方とお知り合いになれたこと、本当に嬉しく思います。そして矢川さんの名は、まだまだこれからもっと広められなければいけないと、私は思います。
矢川さん、安らかにお眠りください。


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