独裁者は嫌い?(02/6/1)


「これじゃあ、独裁者だ!」とは政治の世界で良く聞かれる言葉。
トップになった者が自分の主張を押し通そうとすると、それに反対する人が良く使うようです。最近では首相に対して自民党大物が言ったり、ちょっと前では長野県知事に対して県議会側からそんな反発がありましたっけ。その他、政治家でなくても何か議論が紛糾したときに良く使われるのが「民主主義」という言葉。私の感覚からすれば、この程度のことで「独裁者」とか「民主主義の危機」だなんて大袈裟過ぎます。そんなこと言ったら、大統領制の国々はまあほとんど独裁者ということになってしまうでしょう。
もちろん、この表現の裏には独裁者は良くないもの、民主主義は良いもの、という暗黙の了解があるわけで、意見の通らない反対勢力が精一杯の反論をするにはこういったメタな表現を使わないと気持ちが収まらないのだと思います。

それにしても日本というのはつくづく独裁者が嫌いなように思えます。私の知る限りでは、日本の歴史において諸外国のような独裁者がいたとはとても思えません。もちろん形式的には長期政権というのもあったでしょうが、過激な改革派ほど反対者も多く、すぐに潰される(私の思いつく例では、後醍醐天皇、織田信長、井伊直弼などなど)。逆に安泰だったときは、集団指導体制による傀儡政権だったりすることが多いように思います。これ以上書くとボロが出そうなのでやめておきますが、我々日本人のメンタリティには、現状を激しく否定する改革派は排除され、時間をかけて周囲を説得できるような人格者を尊ぶ気持ちが骨のずいまでしみ込んでいるようです。
周囲を説得するためには、突然現われた改革者ではダメです。その組織の生え抜きでなきゃいけません。そもそも、癒着ともたれ合いの構造を持つ組織内には、お互いがお互いの弱みを握っていて、そういった精神的束縛から逃れることはできませんから、他人の意見をまっこうから否定するなどもってのほかです。大事なことは、議論の内容の正しさ、確かさではなく、人を怒らせない巧みさ、言語能力なのです。こういった現状を目の当たりにして、いかに多くの真摯な理想主義者が挫折してきたことでしょう。

恐らく、こういった社会状態で最も苦手なものは、責任と権限の所在を明らかにすることです。
アメリカ映画などでよくありがちなセリフで、例えばある人物にとって不満な要求をされたとき、「これは命令ですか」「そうだ」「・・・了解しました」というようなやり取りがありますよね。もちろん、最後にはこの命令が間違っていたり、あるいは主人公が敢えて命令に背くことで事態を好転させたりするわけですが、この感覚全く日本人とは違うと思います。日本の場合ならさしずめこんな感じでしょう。「これは命令ですか」「つべこべ言わずにやれ」「・・・すいません」。あるいはちょっと反骨心のある部下なら、上司を説得してしまうかもしれません。でも本来、いくら上司がアホでも、命令は命令なのであって、これを守らないといけないと思うのが欧米風な感覚だと思います。それは、上司は部下に命令できる権限が明確に備わっているからです。だからこそアホは上司にはなれないのです。
逆に考えると日本的組織のリーダーには実は権限がない、というのが実体ではないでしょうか。単に年の功というだけで立場の高さを維持しているだけで、特に力のない人物がリーダーの場合、その組織の実権は実は他の人が持っていたりすることも良くあること。つまり単なる組織的構造からは、その組織の責任の構造までは見えてこないわけです。究極の責任と権限の集中、そしてそのための組織構造が独裁でと呼ばれるわけで、日本的組織とはおおよそかけ離れているのは確かです。

まだ中程度の会社や、地方のしがない自治体ならいいかもしれませんが、さすがに国家となるとこんな具合ではまずいと思う昨今です。そういう体質は、外国とのシビアな交渉のときに露呈してしまいます。世界中に自国の立場を発信していくためにはもっと明確なポリシーが必要であり、政府内だけが上手くまとまれば良いわけではありません。そのためには、もっと大胆に責任を委譲し、権限を明確にする組織構造にする必要があります。ただ、これにはもう100年くらいはかかるような気がしますけど。



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