アカペラ合唱曲のイントロ(02/5/25)


アカペラの合唱曲はここのところ急速に日本の合唱団に広まっているように見えます。邦人作曲家による無伴奏合唱曲もレパートリーがどんどん増えています。元より、合唱の楽しみの基本は無伴奏にあると思っている私としては非常に嬉しい傾向ではあるのですが、私見ではまだまだ邦人作曲家によるアカペラ曲が十分な魅力を持っているとは言い難いような気がするのです。
邦人アカペラ曲の何がこなれていないのか、ちょっと考えてみて思いついたことがあります。それは、邦人曲にはアカペラでありながら妙にイントロ部分が多いのです。イントロというのは、曲のメロディ(歌詞部分)に入る前にハミングやヴォカリーズなどで演奏される断片のことです。
代表的な例でいえば武満徹の「うた」シリーズ、新実徳英の「白青」シリーズなど。もちろん、これらは先にメロディありきで、それらをアカペラ合唱に編曲しなおしたものであるので、純粋な合唱曲とは言えないかもしれませんが、これらに代表される邦人作曲家による無伴奏合唱曲のイメージというのは日本の合唱人の心に深く根付いているような気がします。

逆に考えてみてください。邦人以外の例えばヨーロッパのアカペラ合唱曲で、曲の始まりにイントロのあるものって思いつくでしょうか。極めて稀ではないですか。というか、私の手持ちの楽譜を一通り見てみましたが皆無でした。たいていは、歌詞がパートソロから始まるか、全パートTuttiで始まるかどちらかです。テンポの速い曲では、メロディになる前に伴奏パターンが2小節ほどある場合もありますが、これは取って付けたようなイントロとはまた別のものでしょう。

そうやって考えてみると、実は私の曲にもイントロが結構あります。
そして、邦人アカペラ合唱曲全体でもイントロ率が高いのです。傾向としては、比較的長めの曲とか(組曲の最初か最後などで作曲家が気合を入れる曲)、歌謡的な性格を持った曲で多そうです。もしかしたら、これはピースが多い外国曲と、組曲が多い邦人曲の差なのかもしれません。
無伴奏というのは、全パートが歌を歌うということであり、歌曲などのような伴奏という手段を持たないということです。こういった無伴奏形式の本質を考えるなら、イントロ部というのはどうも不要のような気がしてきます。歌で歌われるべき主題は冒頭からいきなり歌えばよいわけです。しかし作曲家が歌曲などの伴奏の形式という固定観念から離れられないと、ついついイントロを付けてしまうのかもしれません。つまり作曲家の頭の中では、メロディの前にどうしてもピアノ伴奏のようなイントロが響いていて、このイントロがないとどうにもメロディを始められない気持ちになってしまうのです。そう考えると、やはり邦人作曲家のアカペラ形式への慣れがまだまだであるという感じもしてしまいます。
もう一つ考えられるのは、曲の雰囲気が持つ壮麗さ、壮大さへの希求が、どうも邦人作曲家は強いのではないか、ということです。名曲を作りたいという気持ちが先走ると、ついつい曲を壮大な感じに作ってしまいます。例えば、ロマン派の交響曲などは第一主題に入る前に立派な序奏部がつくことが多く、それらは曲の壮大さを醸し出すのに十分な効果を持っています。しかしアカペラという形式はそもそも、派手な管弦楽曲のように表現のダイナミックレンジで曲の素晴らしさを伝えるものではなく、むしろ静謐な空間で美しいハーモニーを堪能するというのがその本質だと思います。ここでも、その他の音楽様式の固定観念から離れられず、そういったアカペラ曲の本質をついつい忘れてしまう(そもそもわかっていないという噂も^^;)様子を感じてしまいます。

アカペラ合唱が当たり前になってきて、人々がその本質的な部分でアカペラを楽しむようになれば、当然その要求に答えた曲も生まれてきます。邦人作曲家はもっともっと肩の力を落として、アカペラ合唱曲を作ってみたらどうだろうと、私自身への自戒も込めてそう思うのです。


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