作曲コンクールとは何か?その2(02/5/19)


曲を評価することの難しさに関しては、まだまだいろいろな議論があると思います。
例えば、作曲技法的にそれほど優れたものではなくても、旋律や曲の持っている叙情性が大変印象的で、後々名曲として残ることだってあるわけです。名曲であるための条件、というのを考えてみるのも面白いですが(もっとも、そんなことが結論付けられるとしたら作曲家は誰も苦労しないですけど)、恐らくは作曲コンクールの趣旨とは噛み合わないことになりそうです。なぜなら一般的には、作曲コンクールとは曲の良し悪しを評価するというよりは、作曲家の能力の違いを評価するものだからです。曲に対して賞が出るのなら、詩人にだってその名誉は与えられるべきでしょう。
しかし、実際には曲の評価という観点と作曲家の能力という観点が表面的には程よくミックスしていて、どちらとも言えないような形にはなっているのだと思います。例えば、純粋に作曲家の能力の違いを評価しようと思うなら、曲を提出するだけでなく、和声課題などを課すという手もあるでしょう。この場合、作曲コンクールが技の競い合いになるのは当然のことですし、比較的納得のいく結果が出ることでしょう。しかし、そのように簡単にならないのが芸術の難しいところなんですが。

さてこの話題の続きということで、最後に応募者側について考えてみます。
それにしても、これまで私が遭遇した受賞者の皆さんというのは非常にクールでしたね。作曲家というのはやはり知的な印象があるのか、そういうタイプの人たちが多そうです。しかしそれでも、コンクールに応募するわけですから、入賞したいに決まっているし、入賞したら嬉しいはずです。しかし、入賞のために払った努力というのは、おおよそクールな態度とは相容れないものなわけで、こういった事情を赤裸々に語ろうとする人は少ないと思われます。私の場合、クールになりきれない人なのでなんの問題もありませんけど。
そんなわけで、応募者の共通の願いは受賞することであるはずです。受賞しなければ、応募したことさえ人に知られたくありません。自分としてはその作品が自信作だったとしても、コンクールで落選したとなれば逆バイアスをかけて見られてしまうからです。これが演奏家のコンクールと大きく違うところかもしれません。
受賞すること、という目的がだんだん一人歩きしてしまうのをどのようにコントロールするかが、恐らく応募者側の一番大きな葛藤ではないでしょうか。例えば、受験や各種試験などのことを考えてみればわかります。多くの試験突破のための攻略本などが出ていて、知識や能力そのものよりも、試験の形式や傾向を知るだけでかなり有利になることだってあります。
コンクールも同じでしょう。過去にどのような曲が受賞したか、は応募者にとって共通の興味であるに違いありません。こういったことを過度に意識すると、自分らしさを見失うことにもなりかねません。あるいは逆に、器用貧乏的な作曲家を生んでしまう可能性だってあります。
これは、作曲家が今後自分らしさをどのように出していくか、そういった判断の分岐点に立たされていることと同じです。世の中には、いろいろなタイプの人がいて当然です。作曲家でも、演奏機会が限られていても極めて独特なスタイルを貫き通す人もいれば、多くの人に演奏されるように変幻自在に曲を書き分ける人もいます。何が悪いわけではありません。これは、芸術観、ひいては人生観の問題です。
受賞することに意義があるのだから、受賞しないような曲を書いても仕方がない、これは応募者にとって大きな葛藤です。この葛藤が決定的な破綻をもたらした場合、作曲コンクールへの応募をあきらめるしかありません。その場合、自分の表現を発表できる場を新たに探す必要があります。でなければ、作曲家になるという夢は捨てるしかないでしょう。
世の中に発表しなくても、一人で地道に作曲したっていいじゃないか、という意見もあるかもしれません。しかしこれは私に言わせたらNo!です。自分の作品を世の中に発表しようとしない人は、作曲家とは呼べないと思います。人は結局自分の価値を世に問うことで成長していくものだと考えます。どんなにささいなことでも人に公表するための努力はクリエータとして必要なことだと私は思うのです。

応募者、審査員、音楽愛好家、それぞれの立場で見方は違いますが、これがなるべく遠ざからないことが大事です。そうでなければ、受賞しても一般には全然演奏されない曲ばかりが増えていくことになりかねませんから。



inserted by FC2 system