審査の問題ということで、今一番ホットな話題はやはりオリンピック。フィギュアスケートでの審査員への圧力問題、ショートトラックの審査への不満など連日のように報道されています。確かに競技の映像とその審査結果を見ると、首を傾げたくなる結果もあるのは確かです。
今回のソルトレークオリンピックの場合、同時テロ以降のアメリカの愛国心高揚の場でもあって、結果的に審査がアメリカ寄りになっているといった報道などもされているようです。
選手にしてみれば、4年に一度という非常に限られた舞台の中で、極度にテンションを高めて臨んでいることは確かなわけで、彼らの気持ちを察するにやはり納得いかない審査というのは同情の念を感じてしまいます。特に、一位でゴールを駆け抜けて歓喜の想いでいっぱいの時に、それをひっくり返してしまう結果が出たときの心境というのは、まさに天地がひっくり返ったような気分とでも言うべきでしょうか。
審査というのは難しいものです。そもそも、その道のプロが一堂に会しているような場で、彼らを審査するような人たちはやはりその道のプロであらねばならず、どう考えても選手と全く利害関係のない立場の審査員がいるとは思えません。それに国対抗のイベントであれば、愛国心が審査に何らかの影響を及ぼすことだって考えられます。日本人なら、日本人選手を応援したいですしね。
そういった審査結果の表れが、審査員の無意識よるものか、また意識的なものか、を判断することはまず無理です。審査に対して不公平だ、と言ってもこの場合どう考えても審査がひっくり返ることはないでしょう。だいたい、審査員の精神状況などどんな取り決めをしても制限することは出来ないのですから。
だからこそ、あえて私は言うのですが、審査員の審査は絶対なモノとして「とりあえずは」受け入れなければいけないのだと思います。感情論に陥れば、落としどころのない非難合戦にしかなりません。数値がはっきり出る結果ならいざ知らず、審査員の主観的評価が影響する競技であれば、まず審査に従うことが競技のルールなのではないでしょうか。
もちろんこれは原則論です。審査に問題があるなら、どういった審査をすべきか、どのように審査員を選ぶべきかなど今後の審査のあり方を検討して、次回の審査に反映させるしかありません。不満に対して率直に対応し、次回からその検討結果を反映することは必要なことです。それでも、そのときの審査は一度審査が下ってしまった以上、絶対的なものであるとするのがやはり正しいことなのだと思います。
私たちの周りで審査と言えばやはり合唱コンクール。幸いなことに審査にまつわる不透明なうわさが表面化したようなことはないようです。そもそも不正をしても見返りはあまりにも小さいですし(オリンピックで金賞を取ったフィギュアスケーターは、その栄誉で一生食べていけるとか)、それよりは贔屓目なしで審査するほうがよっぽどかっこよく思われることでしょう。
それでも、審査に不満の声が漏れることもしばしば。しかし、スポーツよりなお音楽のほうが審査は難しいし、音楽の評価なんてどうやっても主観的にしかならないのだから、自分の想像と違うことなど当たり前のことです。だから、私は人よりは審査結果を素直に受け入れているほうだと自分では思っています。
もし、審査結果に不満があるなら、不満をそのままぶちまけても問題は解決はしません(まあ、解決させたくて不満を言うわけでもないでしょうが)。まず、その不満がみんなで共通に思うことなのであれば、次回に改善するように働きかけるべきでしょうし、そういった不満を吸い上げる仕組みもまた必要なのかもしれません。