詩か曲か?(02/1/19)


合唱曲において、詩を優先するか、曲を優先するか、というような議論を良く見かけます。
もちろん、本質的な意味においてはどちらも蔑ろには出来ないはずなのですが、特に作曲家の観点から、合唱指導の現場では詩に重きが置かれ過ぎているのではないか、というようなことを聞くことがあります。
確かに、こういった現状は器楽の世界から見れば、不可解に映るものと思われます。合唱とは言え、音楽は当然楽譜で書かれており、そこには全体的な音楽的構造や局部的な和声の変化、動機の扱いなど、作曲者が音符から演奏者に伝えたいことがたくさん詰まっています。ところが、合唱指導の現場では、詩を解釈したり、詩人の経歴を調べたり、そしてこの詩で伝えたいことをどのように表現するか、という点が最もクローズアップされているのです。
これは合唱という表現形態が内在している教育的な側面、例えば芸術に触れて情緒を高めようとか、集団で一つの気持ちにまとまろうとか、そういった気持ちの現われとも言えるし、そしてもう一つ言うならば合唱をする人の音楽的素養の低さにも起因しているような気がします。要するに指導の現場では、音楽的分析をしても多くの団員は残念ながら理解できない場合が多いのです。器楽の場合は音符が全てですから、奏者個々人が音楽的素養を高めていかないことには練習になりませんが、合唱の場合そういった面倒なことに踏み込まなくても、音は口移しで体に叩き込ませ、あとは詩の世界を表現することに心血を注いだほうが、手っ取り早く感動的な芸術を作り上げているかのような充実感を感じることが出来るからでしょう。

こういった流れに反発するかのように、近年の邦人作曲家の作品は、詩の文学的構造からかなり意識的に離脱し、音楽的文脈のみで構成されるような合唱曲が目立ちます。こういった曲は一般的な目からみれば難解なものになってしまいますが、コンクールの場などではよく演奏されています。しかし、これはこれで「なぜこの曲は合唱でなければいけないのか」という疑問を生みます。言葉を伝えるからこその声楽曲であり(もちろん異論はあるでしょう)、その魅力はやはりそう簡単に捨てるべきものではありません。

こういった二つのベクトルを、私はモンテヴェルディ的、及びモーツァルト的と呼んでみたいと思います。
モンテヴェルディが音楽の世界で果たした役割が大きいのはご存知の通り。モンテヴェルディは、ルネサンスからバロックへの移行をそのまま生涯の作品を通じて実践しました。モンテヴェルディのマドリガーレ(要するに合唱曲)は、初期はルネサンス的なポリフォニー音楽で作られています。しかし、詩の意味を強調して音楽を作るようになると、このポリフォニーという形式が邪魔になってきました。そしてその作品はだんだんと縦が揃ったホモフォニックな音楽に移行していきます。もとよりモンテヴェルディはオペラというジャンルを確立した人でもあり、彼にとっての声楽曲とはまさに、詩の意味をいかに音楽で伝えるか、ということを第一優先とすべきものでした。こういった作曲態度をモンテヴェルディは第二技法と呼び、古くからのポリフォニー音楽を第一技法と呼ぶことでそれらはもう古いものなんだ、と宣言しているのです。
一方、モーツァルトは全く逆のことを言っています。モーツァルトにとってはいかに面白い音楽が書けるかが第一義であり、全てはそれを中心に考えられていくべきだというような態度です。モーツァルトは手紙の中で「詩は音楽の忠実なしもべでなければいけません」と言っています。どのような文脈で言われたのかは定かではありませんが、彼にとって音楽的な欲求が最優先されることは当然なことだったに違いありません。もっともモーツァルトの場合、それは明文化された音楽的信念というよりは、どちらかというと自己中心的な彼自身の性格の問題なのかもしれませんが...

こう考えてみると、音楽的文脈を中心にすえる作曲家はよりモーツァルト的と言えるのかもしれません。
しかし、私の場合はモンテヴェルディ的でありたいと思っています。作曲家の態度として、いかに詩の世界を音楽で表現するか、あるいは増幅するか、というのが私のずっと変わらない命題なのです。私がこれまで合唱曲を歌ってきて何に感動してきたのか、と自問するなら、こういった考えになっていくことは自明なことと思えます。
もちろん合唱団の音楽的素養は高めていかねばいけませんが、それは別問題。詩の解釈は大いに結構。でもそれと同じくらい音楽の勉強もしてね、という感じでしょうか。


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